第70話
ギルバートに「マスターを討たせてほしい」と直訴したものの、力不足を諭されて悔しさを噛み締めていたアラン。
その一方で、父であるロバートもまた、深い焦りと居心地の悪さを感じていた。
(若い侯爵閣下の厚意に甘え、守られているばかりで……私は父親として、領主として何をしているんだ……)
これ以上レイヴン家に負担をかけまいと焦るロバートのもとへ、ヴェルツ領の執事から「領内の治安維持と復旧作業について、至急領主様の判断と署名が必要な書類がある」との報告が届く。
自分自身が狙われているとは思っていないロバートは、領主としての責任感から「境界の手前まで赴き、書類を確認して署名してくる」と、周囲の制止を振り切ろうとした。
そんなロバートの譲らない態度に、ギルバートは困ったように息を吐きつつも、折れて万全の条件を提示した。
「……分かりました、お義父上。お気持ちは理解いたしましたので、向かうことを許可します。ただし、ひとつだけ絶対の条件があります」
ギルバートは真剣な眼差しでロバートを見つめ、念を押すように強く告げた。
「行き帰りの道中はもちろん、書類のやり取りや署名を行う際も、何があろうと絶対に馬車から外へは降りないと約束してください。書類の受け渡しも、すべて馬車の窓越しで行っていただきます。よろしいですね?」
「ああ、もちろんだとも! 絶対に馬車からは一歩も出ないと誓うよ」
「馬車全体には強力な結界を張り巡らせてありますし、我が家が誇る魔導の精通者である護衛のレイモンドを同行させます」
こうして、ロバートはギルバートと固い約束を交わし、周囲の心配をよそにヴェルツ領へ向けてレイヴン邸をあとにするのだった。
* * *
道中、馬車の中は和やかな空気に包まれていた。
「いやはや、レイヴン侯爵閣下の配慮には頭が下がるよ。レイモンド君も、わざわざ護衛ありがとうね」
「いえ、ロバート様。道中の安全を確保するのが私の務めですので」
ロバートが護衛のレイモンドとそんな他愛のない会話を交わしていた、その時だった。
御者が突然、馬車を急停止させた。
「っ……! 何事だ!?」
ロバートが驚き声を上げると、レイモンドは険しい顔つきで外を睨み、鋭く告げた。
「ロバート様! 約束通り、何があっても絶対にこの馬車の扉を開けないでください!」
そう言い残すと、レイモンドは身構えて馬車から飛び出した。
ロバートはハッとして息を呑み、約束を守ってじっと馬車の窓から恐る恐る外の様子を伺った。
外の視界の先には、不気味な黒いローブを纏った男――バルドが立っていた。
「レイヴン家の狗か。邪魔をするな」
「貴様……マスターの配下だな!」
レイモンドは即座に魔導を構え、迎撃の態勢に入る。だが、バルドの繰り出す呪術は一筋縄ではいかなかった。
鋭い魔力の衝突が周囲を切り裂き、激しい戦闘の気配が馬車の外で繰り広げられる。
レイモンドは苦戦しながらも、馬車の御者に向けて叫んだ。
「俺はいい! このままロバート様を乗せてレイヴン邸へ引き返せ!」
御者が慌てて馬車を反転させようとしたその瞬間、バルドの放った強烈な魔導弾が、馬車の進行方向の地面へと叩き込まれた。
――ドゴォンッ!!
大地が爆ぜ、馬車の前方に巨大な亀裂が走る。
「なっ……!」
御者が慌てて手綱を引く。
これでは、馬車を進ませることができない。
「くそっ……!」
レイモンドが深手を負いながらも立ち上がろうとするが、バルドの圧倒的な圧力がそれを阻む。
「ぐっ……!」
レイモンドは血を流しながら、馬車に向かって必死に叫んだ。
「ロバート様! 絶対に降りないでください! この馬車の結界さえあればあいつらの攻撃は防げます……! これほどの魔力の衝突が起きれば、すぐにギルバート様たちが結界の異常を察知して駆けつけてくださいます! それまでどうか……耐えてください……っ!」
「レイモンド君……っ!」
馬車の窓から外を見ていたロバートは、恐怖と凄惨な光景に息をのんだ。
ギルバートと交わした『絶対に馬車から降りない』という固い約束を守り、必死に車内に留まろうとする。
だが――冷酷な笑みを浮かべたバルドが、倒れ伏すレイモンドの頭上に禍々しい魔導を構え、トドメを刺そうと足を進めた。
「静かにしていろ、邪魔者め。まずは貴様から始末してやる」
「ぐっ……うあ……っ!」
必死に身構えるものの、深手を負ったレイモンドにはもう防ぐ術がない。
(だめだ……! このままじゃレイモンド君が殺されてしまう……っ!)
ギルバートとの約束も、己の身の危険も、すべてが頭から吹き飛んだ。自分を守るために命を懸けてくれた若い護衛を、目の前で見殺しにすることなど、ロバートの道義心が絶対に許さなかったのだ。
「やめろーーっ!!」
制止の叫びとともに、ロバートは車内の扉を激しく押し開き、自ら外へと飛び出した。
「ロバート様……っ!? だめだ、出てきては……っ!」
血を吐きながら叫ぶレイモンドをかばうように、ロバートはバルドの前に立ち塞がった。
そんなロバートの姿を見下ろし、嘲笑うような冷ややかな声が降ってくる。
「――っ、馬鹿ねぇ。自分から出てきてくれるなんて、いい気なものだわ」
冷ややかな、聞き覚えのある声が降ってきた。
顔を上げたロバートの視線の先に立っていたのは、かつて縁を切って追い払ったはずの元妻・ルイーゼ、そして義理の娘であったシャルロッテとソフィーの三人だった。
「お前たち……!」
ロバートが息を呑む。目の前の彼女たちは、かつての贅沢を知る面影など微塵もなく、やつれ果て、泥にまみれた信じられないほど汚らしい身なりをしていた。
「よくも私たちをあの家から追い出してくれたわね! おかげでこんな惨めな暮らしをする羽目になったのよ!」
シャルロッテとソフィーが、憎悪に満ちた目でロバートを怒鳴りつける。
だが、ロバートのほうも、レイチェルに操られていたとはいえ、彼女たちに家庭をかき乱された怒りが一気に蘇った。
「うるさい! あの女の精神誘導にかかり、私が正気を失っている間に勝手に我が物顔で入り込んでいたんだろう! そんなことでもなければ、お前たちになんて関わるものか!」
「ひどい! それは言いすぎじゃない!」
ソフィーが叫ぶ。
レイヴン家の護衛であるレイモンドが、血を流しながらも必死に這い上がり、声を張り上げた。
「だ、だめだ……ヴェルツ子爵様、早く馬車へお戻りを……っ!」
だが、ロバートの怒りはもう収まらなかった。
「私はお前たちのような欲にまみれた者たちを許さない! 私が愛するのは、かけがえのない娘のエカテリーナと息子のアランだ! そして、私の妻は愛するマリアただ一人だ! お前たちのような泥棒猫どもと一緒にされたくない!」
その言葉が、ルイーゼの中で理性のタガを完全に外した。
「……ふざけんじゃないよ……! 人をここまでおちょくりやがって……! 全部、この男のせいだ……!」
怒りの頂点に達したルイーゼは、冷酷な笑みを浮かべたバルドを振り返り、叫んだ。
「バルド! 今よ、やりなさい!」
「……フッ、素晴らしい感情だ。よくぞそこまでの憎悪を煮詰めてくれた」
バルドは満足げに目を細めると、足元に禍々しい呪術の魔法陣を急速に展開した。
(マスターが目指す『石匣』の完全開放……そのためには、絶望と怒りが生む強大な負の呪力が必要不可欠。この女たちの醜い憎悪こそ、最高の燃料だ……!)
バルドはルイーゼたちから立ち上るドス黒い憎悪の瘴気を自身の魔法陣へと急速に吸い上げ、練り上げていく。
自力で呪いを生み出せないマスターに代わり、他者の負の感情から生じた呪力を魔法陣によって収束・増幅し、強大な呪詛へと形作ることこそが、バルドの真骨頂だった。
すでにレイモンドは深手を負って動けず、ロバートを助ける者は誰もいない。
「お前なんて、ここで消えてしまいなさい――!」
ルイーゼの狂気的な叫びと連動するように、ルイーゼたちの強い憎悪を燃料にして限界まで威力を高めたドス黒い呪詛の光が、バルドの魔法陣から解き放たれ、ロバートの胸元へと容赦なく叩き込まれた。
「がっ……あ……っ!」
ロバートの顔色が一瞬で真っ青になり、目を見開いたまま、その場にぐらりと崩れ落ちた。




