第68話
朝の柔らかな光が差し込むレイヴン邸の食堂には、焼き立てのパンと温かいスープの芳醇な香りが漂っていた。
和やかな空気の中、食事も終わりに差し掛かった頃、アランがどこか緊張した面持ちでギルバートを見つめ、思い切ったように口を開いた。
「あの……お義兄様! 今度お時間のある時に、僕に剣の手ほどきをしていただくことはできませんでしょうか……っ! 王国一番と謳われるお義兄様の剣技を、少しでも学びたいのです!」
勢いよく身を乗り出して頭を下げるアランに、父親のロバートが慌てて眉をひそめ、制するように声を上げた。
「こら、アラン! ギルバート様は領地のご執務や聖騎士団の務めで大変お忙しいお方なのだぞ。そのような私的なお願いでご迷惑をおかけするものではない!」
申し訳なさそうに頭を下げようとするロバートに対し、ギルバートはふっと口元を緩め、穏やかに首を振った。
「構いませんよ、お義父様。アランがそれほど熱心に剣に打ち込もうとしているのは頼もしいことです。私も義理の弟に稽古をつけるのは楽しみにしていたところですから。……アラン、近いうちに時間を作る。その時は覚悟して臨むといい」
「はいっ! ありがとうございます、お義兄様!」
ギルバートの頼もしい言葉に、アランは目を輝かせて嬉しそうに返事をした。
そんな仲睦まじい家族のやり取りを、エカテリーナも心を温かくしながら優しく見守っていた。
* * *
そうして賑やかな朝食が終わり、一同がそれぞれ散会した後のこと――。
雲ひとつない澄み渡った青空からは心地よい陽光が降り注ぎ、レイヴン邸のテラス席には咲き誇る花々の甘い香りが漂っていた。
「今日は本当にいいお天気ですね。……ラーシャ、よければ少しテラスでお話ししませんか? 温かいお茶でも飲みながら」
エカテリーナの優しく柔らかい提案に、ラーシャは一瞬驚いたように紫色の瞳を揺らしたものの、静かに首を縦に振った。
用意されたテーブルを挟み、ギルバートとエカテリーナ、そして少し恐縮した様子で腰掛けたラーシャの三人が向かい合う。
澄み切った陽気とは裏腹に、ラーシャの表情にはどこか暗い影が落ちていた。温かいティーカップを両手で包み込みながら、彼女は静かに視線を落とす。
そんな彼女の様子を静かに見つめていたギルバートが、思いを巡らせるように重厚な声で問いかけた。
「……ラーシャ。差し支えなければ教えてくれないか。お前はなぜ、それほど暗い道……禁忌の呪術を扱う魔呪師の道へと足を踏み入れることになったんだ?」
その問いに、ラーシャはカップを抱える手に少しだけ力を込め、遠い目をしてゆっくりと口を開いた。
「……私が幼い頃、唯一の肉親だった母が亡くなったんです。それからは頼れる人も、身寄りもなく……ただ一人、残されてしまいました」
ポツリと漏らされた悲痛な告白に、エカテリーナとギルバートは深く静かに耳を傾けた。
「身を寄せる場所もない私は、光の届かない劣悪なスラム街へと流れ着きました。毎日食べるものすらなく、ただ今日を生き延びることだけを考えて泥を啜るような日々を送っていたんです。生きていても誰にも顧みられず、明日死んでも誰の記憶にも残らない……そんな惨めな存在だった私を、ある日、一人の男が拾い上げてくれました」
ラーシャは、遠い記憶を辿るように、ぽつりぽつりと語った。
その指先が、微かに震えている。
「……そうして連れて行かれた冷酷なアジトの中で、私はバルド様の下で育ちました。過酷で息の詰まる訓練の日々の中、ある日マスターから『お前は優秀だ』と言われたんです」
エカテリーナが言う。
「その人が、ラーシャをスラムから……。ねえ、ラーシャ、そのバルドという人は、あなたにとっては恩人なのね」
「はい……。厳しい方でしたけど、行き場のない私に生きる術を教えてくれたのは確かですから……」
複雑な色を浮かべるラーシャの瞳を見つめ、エカテリーナは優しく微笑みながら、彼女の肩をそっとさすった。
ラーシャはそこで一度言葉を切り、膝の上で小さな拳を握りしめた。
「……私と同じように、あのアジトには多くの子どもや若者がいました。そして、ある程度の力を身につけた者たちは……王国各地へ送られていったんです」
「王国各地へ……?」
エカテリーナが小さく聞き返す。
「はい。人のほとんど訪れない、辺鄙な場所へ……」
ラーシャの声が、わずかに震えた。
「そこで命じられていたのは……魔法や呪術を使って、意図的に魔物を発生させることでした」
「……何だと?」
ギルバートの眉が鋭く寄る。
「指定された場所へ行き、決められた術式を使って魔物を呼び寄せたり……その数を増やしたりする。それが、彼らに与えられていた役目だったそうです」
「では……その魔物が発生した後は?」
「王国から討伐隊が送り込まれていました」
その言葉を聞いた瞬間――。
ギルバートの瞳が、大きく見開かれた。
「……討伐隊……」
低く呟いた声に、エカテリーナが彼を見上げる。
「バート……?」
その瞳には、かすかな動揺が浮かんでいた。
脳裏に浮かんでいたのは、聖騎士となったばかりの頃の記憶だった。
――二年間。
自分が聖騎士として王国各地を転戦していた、あの二年間。
辺境での魔物大量発生。
街道を塞ぐ魔物の群れ。
村を襲う異形の獣。
次から次へと舞い込んでくる討伐要請。
ギルバートたちは、そのたびに王国各地へと赴き、魔物を討ち滅ぼしていた。
(……まさか)
背筋を、冷たいものが走った。
(あの二年間……王国各地で相次いでいた魔物の大量発生は、偶然ではなかったのか?)
「……ラーシャ」
ギルバートの声が、低く響く。
「お前自身も、その魔物を発生させる任務に参加していたのか?」
「……いいえ」
ラーシャは静かに首を横に振った。
「私は……まだ子どもでしたから」
その言葉に、ギルバートは目を細める。
「私には、そこへ行くほどの力もありませんでした。だから……魔物を発生させる現場へ送られることはなかったんです」
「……そうか」
ラーシャは少しだけ視線を落とした。
「でも……そこへ送られていった人たちがいたことは知っています。戻ってこない人もいました。怪我をして使い物にならなくなった人や、任務を続けられなくなった人は……そのまま捨てられていました」
「……」
誰も言葉を発することができなかった。
ラーシャは、そんな沈黙の中で、ぽつりと続ける。
「だから私は……あれが何のためだったのか、全部を知っているわけではありません。ただ、命令された場所で魔物を発生させる。それだけが、私たちに与えられていた役目だったんです」
その言葉を聞きながら、ギルバートは拳を強く握りしめた。
(俺が聖騎士となり、王国各地へ討伐に駆り出されていた二年間……)
そして、その二年間に起きた出来事が、次々と脳裏をよぎった。
――エカテリーナの母、マリアの死。
――父ロバートの突然の変化。
――精神を誘導されたかのように、家へ迎え入れられた後妻と義妹。
――困窮していくヴェルツ家。
――家族を支えるために働き続け、心身ともに追い詰められていったエカテリーナ。
――そして……ジュリアスとの結婚。
(……待て)
ギルバートの呼吸が、わずかに止まった。
(全部……この二年間の中で起きている)
自分が王国各地を飛び回り、魔物を討伐している間。
エカテリーナのすぐそばでは、彼女を不幸へと追い込む出来事が、一つずつ意図的に仕組まれていたのではないか。
(俺が王国中を駆け回っている間に……)
(あいつらは、カティの母親を奪い……家族を壊し……そして、彼女をジュリアスとの結婚へ追い込んだ……?)
胸の奥に、凍りつくような怒りが込み上げてくる。
そして――
あまりにも恐ろしい可能性が、脳裏をよぎった。
(……俺を、カティから引き離すためだった……)
王国各地で魔物を発生させれば、王国最強の聖騎士である自分が討伐へ駆り出される。
その間に、エカテリーナの周囲から少しずつ支えを奪っていく。
母親を失わせ、家を壊し、彼女を追い詰める。
そして最後には、別の男との結婚へと追い込む。
(もし……それが最初から仕組まれていたのだとしたら)
ギルバートの瞳に、凄まじい殺気が宿った。
(俺がカティのそばにいない二年間を作るために、魔物を発生させ続けていたというのか)
そして、その先にある最悪の答え。
(もし討伐の途中で、俺が魔物に殺されていたとしても――)
唇を強く噛みしめる。
(奴らにとっては、それすら好都合だったのかもしれない)
エカテリーナを守る者がいなくなる。
そうなれば、奴らは俺のいないところで、彼女を好きなように追い詰めることができる。
ギルバートは、ゆっくりと顔を上げた。
「……つまり」
その声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「お前たちは知らないうちに……俺を、カティから引き離すための道具として使われていたのかもしれない」
ラーシャは驚いたように目を見開く。
「……え?」
「魔物を発生させる。王国は討伐隊を派遣する。俺たちはそこへ向かう。その間に――」
ギルバートは、エカテリーナを見た。
「……カティの人生を、奴らは壊していった」
その声には、怒りだけではなかった。
自分が彼女のそばにいなかった、その時間。
その時間こそが、敵によって意図的に作られたものだったのだとしたら――。
ギルバートは、奥歯を強く噛みしめた。
(俺がもっと早く気づいていれば……)
(あの二年間、カティの身に何が起きていたのかを知っていれば……)
胸の奥に、激しい悔恨が突き刺さる。
だが――。
その悔恨すら、今は怒りへと変わっていた。
自分が知らない場所で、愛する女性を傷つけ続けていた者たち。
そして、自分自身の命さえも、彼女から引き離すための駒として利用していた者たち。
「……許さない」
低く、凍てついた声が落ちた。
「絶対に……許すものか」




