第67話
暗い石造りの地下室。
その中央で、黒いローブに身を包んだマスターが、古びた石匣をじっと見つめていた。
その背後には、同じく黒衣をまとったバルドが跪いている。
「……お前は、長きにわたって私のために暗躍してきた。幼いギルバートに凶暴な野獣を仕向けたのも、最初にレイチェルへ接触し、呪いの種を植え付けたのも、お前だったな」
「……すべては、マスターの御心のままに」
バルドは静かに頭を垂れた。
だが、マスターの瞳には、隠しきれない苛立ちと憎悪が滲んでいた。
「……くそっ。私には、人間の内側から湧き上がる激しい呪いや、強い負の感情の持ち主を探し当てることしかできない……!」
マスターは石匣を強く握りしめる。
「見つけ出すことはできても、私自身にはそのドロドロとした力を、強大な『魔呪』として形にして実用化する才能が――悔しいことに、一切ないのだ……!」
それこそが、マスター自身の限界だった。
人の心に潜む強烈な憎悪や怨念を見抜くことはできる。
だが、それを自ら強大な呪詛へと変える才能はなかった。
だからこそ彼は、優れた魔導の才能を持つ者たちを集め、己の手足として利用してきたのだ。
そして――そのすべての始まりは、今から二十五年ほど前に遡る。
***
当時のマスターは、没落しかけた貧しい貴族家の次男だった。
魔力もなければ、剣の腕もない。
家には権力も財力もなく、本人にもこれといった才能はなかった。
ただ一つだけ、人並み外れていたものがある。
それは、古代文献に関する膨大な知識だった。
その知識を買われ、どうにか王立高等学院の古文書・古代文学科へ進学したものの、周囲には華やかな才能を持つ学生たちが大勢いた。
「またあいつ、古文書ばかり読んでいるぞ」
「本しか友達がいないんじゃないか?」
そんな嘲笑を浴びながら、彼はひたすら古代文献を読み漁っていた。
そして、そんな彼が心から愛した女性がいた。
銀色の髪に、澄んだ青い瞳。
美しく、優しい女性――セリア。
彼はいつか彼女に想いを告げ、結婚を申し込みたいと願っていた。
だが、彼女の前には常に一人の男がいた。
アルフレッド・レイヴン。
歴代でも屈指の才能を持つ聖騎士。
剣の腕も、家柄も、人望も――何もかもが自分より上だった。
マスターは、そんなアルフレッドを激しく妬んでいた。
それでも、
(いつか私も、アルフレッドに負けない何かを手に入れてみせる。そうすれば、セリアも私を見てくれるはずだ)
そう信じていた。
そこで彼は、古代文献の中から『月光石』に関する伝承を見つけた。
それは、遠い辺境の聖地に存在するとされる神秘の石。
そこへ辿り着くことができれば、自分の人生を変える何かを手に入れられるかもしれない。
そう考えた彼は、一人でその地へ向かった。
だが、聖地の周囲には凶悪な魔物が巣食っていた。
剣も魔法も使えない彼には、まともに戦うことなどできない。
「くそっ……! 来るな! 来るなぁっ!」
命からがら逃げ回った末、彼は茂みの中へ転がり込んだ。
そして――そこで、偶然見つけた。
黒く変色した、古びた石匣を。
「……なんだ、これは?」
彼はそれを持ち帰った。
そして、古代文献を頼りに徹底的に調べ始めた。
やがて、彼は知ることになる。
その石匣には、かつて伝説の大聖女によって封じられた――『あらゆる呪いの根源』とも呼ぶべき、恐ろしいものが封印されていることを。
だが、そこで彼はさらに驚くべき事実を知った。
人間の憎悪や怨念を力へと変え、人そのものを死に至らしめる『呪詛』。
それは、かつて存在したとされる古代の禁忌だった。
現代の魔術師たちの間では、とうに失われた術。
古文書の中にわずかに記録が残っているだけで、実際に人を呪い殺すほどの力を持つ呪詛など、誰も実用化できるとは考えていなかった。
ましてや、一般の人々にとっては――そんなものは、古い伝説か迷信にすぎない。
だからこそ、誰も警戒していなかった。
アルフレッドでさえ。
聖騎士として強大な魔法や魔物への備えはあっても、現代では失われたはずの禁忌の呪詛が、この世に再び蘇ろうとしているなどとは知る由もなかったのだ。
「……ふふ」
マスターの口元が、ゆっくりと歪んだ。
「こんな力が……私の手に……」
通常の魔法では届かない場所へ。
剣では傷つけられない相手へ。
そして――自分を見下してきた者たちへ。
この『呪い』なら、手を伸ばせる。
そう気づいた瞬間から、彼の中で何かが壊れ始めた。
石匣の力を知った直後、彼はセリアに想いを告げようとした。
自分が手に入れた力を胸に、今度こそ彼女へ想いを伝えようとしたのだ。
しかし――。
「ごめんなさい。私……好きな人がいるの」
セリアの心には、すでに別の男がいた。
アルフレッドだった。
「……アルフレッド……?」
その名を聞いた瞬間、彼の心は完全に打ち砕かれた。
よりにもよって、またアルフレッド。
剣も、家柄も、才能も。
何もかも自分より上だった男が――今度は、自分が心から愛した女性まで奪っていった。
「……こんな世界、もう滅びてしまえばいい……!」
その日から、彼の心に激しい憎悪が芽生えた。
そして彼は、石匣に関する研究をさらに深めていった。
そこで気づいた。
呪詛を生み出す力の源となるのは、単なる魔力ではない。
人間の中にある、強烈な憎悪や怨念――。
それこそが、呪いを生み出す燃料なのだ。
そしてマスターには、その力を持つ人間を見抜く、不思議な才があった。
自分には呪いを形にする才能がない。
ならば――才能を持つ人間を見つければいい。
そう考えた彼は、同じように世の中へ強い不満を抱いていたバルドを見つけ出した。
そして、彼を利用して最初の呪詛を完成させた。
その最初の標的となったのが――セリアだった。
「……そうだ。私がこの手で初めて『呪い』を試し、その絶望を味わわせたのも――ほかならぬ、あの女だった」
マスターの瞳に、狂気が宿る。
セリアは死んだ。
それが、すべての始まりだった。
アルフレッドへの嫉妬。
レイヴン家への憎悪。
そして、自分を認めなかった世界への復讐。
それらすべてが、呪いという形になっていった。
***
「……本当なら、あの忌々しいアルフレッド本人を呪い殺してやりたかったさ」
現在へ戻ったマスターが、石匣を撫でる。
「だが、あのような歴代最強と謳われる聖騎士に直接呪詛を送り込んだところで、強靭な聖気と肉体に弾き返されるのがオチだ。正面からでは、奴を傷つけることすらできない……」
マスターは忌々しそうに歯を食いしばった。
「それに、生まれたばかりの赤ん坊だったギルバートにさえ、聖騎士の血筋に受け継がれた強大な加護が宿っていた」
幼いギルバート。
まだ何も知らず、何もできない赤ん坊。
それでも、その身には聖騎士の血筋が持つ加護が宿っていた。
「だからこそ、奴が十歳になった頃――私は直接の呪いを諦め、野獣を仕向けて物理的に排除するしかなかった……!」
それが、あの日の事件だった。
ヴェルツの森に放たれた、凶暴な野獣。
幼いギルバートへ迫った死の牙。
そして――。
その少年を庇った、一人の少女。
エカテリーナ。
あの瞬間、彼女の身体から漏れ出した微かな聖なる光を、マスターは見逃さなかった。
それは、長い年月を経て再び現れようとしていた『聖女』の兆しだった。
だからこそ、彼はギルバートを直接狙うことを諦め、別の方法を選んだ。
人を利用し。
人の憎悪を煽り。
呪いを育て。
ゆっくりとエカテリーナを蝕んでいく。
その役目を担ったのが――レイチェルだった。
「……私を拒んだ女が、あいつと結ばれ、子供までなすなど許されるはずがない……!」
その憎悪は、二十五年もの時を経ても消えることはなかった。
むしろ、長い年月をかけてさらに濃く、さらに醜く、さらに強大なものへと変わっていた。
そして今。
その憎悪によって集められた呪いの力は、石匣の封印を解くための力として、少しずつ蓄積され続けている。
マスターは黒い石匣を撫でながら、歪んだ笑みを浮かべた。
「……もうすぐだ。もうすぐで、この忌々しい封印を――」
暗い地下室に、狂ったような笑い声が響き渡った。




