第62話
「――この子は、私がレイヴン邸に連れて帰るわ」
事件のあと、校舎の裏手で崩れ落ちるラーシャをそっと抱き起こしながら、エカテリーナははっきりとそう告げた。
それを聞いた瞬間、ギルバートの眉間にはみるみるうちに険しいシワが刻まれた。
「馬鹿なことを言うな、カティ! 聖女の命を狙った暗殺者だぞ。どんな罠が仕込まれているか分かったものではない。今すぐ地下牢へ放り込むべきだ」
「そんな冷たいこと言わないで! ――それに、バートはいつも、私以外の人間には冷たすぎるわ」
愛しい妻から「冷たすぎる」と叱られた瞬間、冷徹な侯爵様の戦闘態勢は、あっけなく崩れ去った。
ギルバートは「うっ……」と言葉を詰まらせ、激しい葛藤の末に大きく息を吐き出した。
「……わかったよ。カティがそこまで言うなら」
「ありがとう、バート!」
こうしてラーシャは、厳重な警戒態勢の中、レイヴン邸へと連れ帰られた。
* * *
夜遅く。
ベッドですっかり眠り込んでいるラーシャを見届けたあと、ギルバートはエカテリーナの手を取って廊下へと歩み出た。
「屋敷の中なら、俺が張った最高峰の結界があるから絶対に安全だ。だが、聖女の命を狙う輩が実際に現れた以上、王立高等部の仕事はもう辞めてもらう。これ以上の継続は絶対に認めない」
エカテリーナも、今回の件の重大さと危険性を身をもって理解していたため、素直にうなずいた。
「……そうね。私のせいで、学校の生徒や関係者に迷惑をかけるわけにはいかないわ。すぐにでも教員を辞めるわ。……でも、学校への代理の教師や手続きはどうしたらいいのかしら?」
「そんなこと、気にしなくていい。優秀な人材をすぐに手配するから、カティは何も心配しなくていい」
愛しい妻を危険から遠ざけたい過保護な夫の気迫に押されつつも、ギルバートは少し言いにくそうに付け加えた。
「それで……あの少女の部屋だが、万が一のことを考えて、地下の特別室を用意させるつもりだ」
しかし、エカテリーナは首を横に振った。
「ううん、ダメよ。あの子、まだ怯えているわ。一人ぼっちにしておいたら、何を考えてしまうか分からないもの……。だから今夜は、私が一緒に寝るわ」
「なっ……! カティ、何を言っているんだ! 相手は殺し屋だぞ、いくら衰弱しているとはいえ、万が一ということが――」
「大丈夫よ。私の聖女の力があれば、どんな罠も不意打ちもすべて防げるわ。それに、あの子が本当に私を害しようとしているわけじゃないことくらい、私には分かるもの」
困ったように微笑む妻の揺るぎない決意を見て、ギルバートはこれ以上折れるわけにはいかないと眉間にシワを寄せたが、最後には妻の優しさに負けて大きなため息をついた。
「……わかったよ。ただし、ラーシャの身体には俺の結界を幾重にも重ねておく。少しでも異変があれば、すぐに俺が気づくようにな」
「ふふ、ありがとう、バート」
こうしてその夜、エカテリーナはラーシャと同じベッドに潜り込み、怯えて震える少女を優しく腕の中に抱きしめながら眠りについたのだった。
* * *
そして――翌日の朝。
エカテリーナが目を覚ますと、すぐ隣でまだ眠っているラーシャの様子を確認した。
昨夜は怯えて震えていた少女も、エカテリーナに抱きしめられながら眠ったことで、今は穏やかな寝息を立てている。
(まだ少し疲れているみたいね……。起きたら、綺麗にしてあげましょう)
エカテリーナはラーシャが起きると、着替えを手伝い、髪をブラシで丁寧にとかして綺麗に整えてやった。
「……先生、自分でやります……!」と、ラーシャは顔を真っ赤にして照れくさそうにするが、エカテリーナは「いいのよ、可愛いんだからじっとしていて」と嬉しそうに微笑みながらお世話を焼き続ける。
身支度をすっかり整え、エカテリーナとラーシャが手を繋ぎながら仲良く食堂へと降りてくると――そこには、すでに席について待っていたギルバートの姿があった。
食堂の扉が開き、愛しい妻が現れたことで、いつものように「おはよう、カティ」と甘い笑顔で迎えようとしたギルバートだったが、そのすぐ隣にぴたりと寄り添う少女の姿を見た瞬間、ピタリと動きが止まった。
(……昨日の暗殺者が、なぜ妻に懐いた野良犬のようにベッタリとくっついているんだ……!?)
黒いローブや制服ではなく、エカテリーナが彼女のためにと見繕って用意した、淡いパステルカラーの年頃らしい可憐なワンピースを身に纏っている。
綺麗に洗い上げられた美しい紫色の髪はサラサラと揺れ、丁寧な手入れのおかげで、彼女本来の瑞々しい素肌の美しさが際立っていた。
何より、エカテリーナが「ねえバート、ラーシャさん、すごく似合っているでしょう?」と嬉しそうに微笑んでいるため、ギルバートとしては険しい顔をするわけにもいかない。
(いや、しかし、いくらカティが気に入ったからといって、元暗殺者をここまで至近距離に……っ!)
ギルバートが頭を悩ませているのに対し、エカテリーナは全く気にせず、ラーシャを自分のすぐ隣の席に優しくエスコートして座らせた。
「さあ、ラーシャさん、たくさん食べてね。美味しいスープがあるのよ」
「あ、ありがとうございます……先生……」
いつもなら「今日もカティが可愛いな」「バート、もう、みんなが見ているでしょう?」と朝から夫婦水入らずでイチャイチャしながら食事をとるはずのレイヴン邸の食卓は、すっかり「優しいお姉さまと、ちょっと人見知りな少女の朝食風景」の様相を呈していた。
愛しい妻を独り占めされているような、しかしどこか微笑ましい光景を前に、ギルバートは渋い顔のままカップの紅茶をすすることしかできなかった。
* * *
ラーシャはギルバートとエカテリーナに向かって、深々と頭を下げた。
「昨日は……本当に、本当に申し訳ありませんでした……!」
震える声には、嘘偽りのない深い反省と後悔が滲んでいた。
そんな彼女を見て、ギルバートは穏やかな、しかしどこか包み込むような落ち着いた声で言った。
「顔を上げろ。まずは、飯を食え。腹が減っては話もできんからな」
「……はい!」
ラーシャがスプーンを手に取り、料理を一口食べると、思わず瞳を潤ませた。
「……美味しい……です……」
今の彼女には、この温かくて美味しい料理はあまりにも染みた。
そんな彼女の様子を見て、ギルバートはスッとエカテリーナの皿へと料理を取り分けながら、どこか得意げに口を開く。
「カティの好きなものばかり揃えさせたからな。イチゴと桃はカティが大好物だから、お前もたくさん食うといい」
「ちょっと、バート! そんなわざわざ言わなくても……」
エカテリーナが恥ずかしそうに頬を染めて旦那様を軽く小突く。
そんな微笑ましい夫婦のやり取りを、ラーシャはどこか温かいものを見つめるような眼差しでそっと眺めていた。
* * *
朝食を済ませたあと。ギルバート、エカテリーナ、そして側近のリチャードが同席し、ラーシャから直接事情を聞くための厳かな聞き取り調査が始まった。
「さて、ラーシャ。お前の口から、その黒幕の男の企みについてすべて話してもらおうか」
ギルバートの落ち着いた、しかし威圧感のある声に促され、ラーシャは小さくうなずくと、静かに話し始めた。
「……私たちを束ねていたその男――自らを『マスター』と称する者が、世界に眠る禁忌の呪術を求めて各地を渡り歩いていた頃の話です」
お茶を一口飲んで呼吸を整えると、ラーシャは小さく震える手を抑えながら、言葉を紡いでいった。
「今から25年ほど前、マスターは古文書にある『月光石』の噂を聞きつけ、ある辺境の聖地へ足を踏み入れました。そこは数千年前、伝説の大聖女が愛する騎士を失い、月を見上げて流した涙が結晶化した場所と言われています。
ただ、周囲には凶悪な魔物が巣食っており、近づくことができませんでした。ですが、その側で偶然見つけてしまったのです――黒く変色した、古びた『石匣』を。
それこそが、かつて聖女が封印した『あらゆる呪いの根源』でした。
匣を手に入れた瞬間から、マスターの欲望は狂い始めました。彼はその封印を解き、我が物にしようと企んだのです。
……そして彼は、レイヴン家を深く憎悪し、その血を根絶やしにしようと動いていました」
ラーシャのその言葉に、ギルバートは険しい表情のまま深く頷いた。
「……聖女が封印したという『石匣』だな。その存在については俺も聞いたことがあった。だが、所詮は古い伝説の中のものだと思っていた。それが月光石の採れる聖地で見つかったというのか」
エカテリーナは静かに自身の指輪に嵌められた月光石をそっと指先で撫でた。かつてギルバートが自分のためにその手で採りに行ってくれた、あの聖女の涙の結晶。
ギルバートもまた愛妻の手元を一瞥し、さらに鋭い眼光を向ける。
「聖女の涙と言われるあの月光石の地……カティが身につけているその指輪の石が採れた場所こそが、奴がその忌まわしい石匣を手に入れた因縁の地だったとはな……」
ギルバートの言葉に、ラーシャは小さくうなずいて続けた。
「はい……。あの美しい伝説の裏で、奴は禁忌の石匣を持ち帰ってしまったのです」
すべての真相にたどり着いたギルバートは、険しい顔でさらに鋭く問うた。
「……だが、やつが直接手を出さず、これまで回りくどい手ばかり使ってきたのはなぜだ?」
「それは……マスター自身が強力な魔呪を直接操ることを得意としていなかったから、というのもありますが。あの石匣の封印を解くには、通常の魔法や魔導ではなく、人間の憎悪や怨念から生まれる『呪いの力』そのものが必要なのです。
マスターには、人の中に眠る『呪う力』の強さを見抜く、不思議な才がありました。だからこそ、強い憎悪や怨念を抱く者を各地から見つけ出しては、組織に引き入れていたのです。
レイチェルも、その一人でした。
あの女がエカテリーナ様に強い憎しみを抱いていることを知ったマスターは、これほど都合のいい相手はいないと考えたのでしょう。彼女に力を与え、呪いを使わせることで、石匣の封印を解くための力を蓄え続けていたのです。」
「侯爵様がまだ十歳の頃も、直接の呪いは難しかった。聖騎士の血筋による強大な加護によって、幼いあなた様の身には呪詛が届かなかったらです。そのためマスターは直接の呪いを諦め、ヴェルツの森から凶暴な野獣を仕向けて、物理的に排除しようとしました……」
その言葉を聞いた瞬間、エカテリーナは思わず目を見張り、声を漏らした。
「えっ……? 野獣を……? もしかして、あのとき……私たちが遭遇した……っ!」
「そうだ、カティ。あのときお前が身を挺して俺を庇い、その内側からあふれ出た聖なる光で野獣を追い払った。……あの事件こそが、奴に『聖女の覚醒』を恐れさせるきっかけだったのだ」
ギルバートが苦い記憶を噛み締めるように言うと、ラーシャはさらに頭を垂れて続けた。
「はい……。それゆえにマスターは計画を変え、周囲の人間を操るようになりました。レイチェルという女に接触し、呪詛の種を植えつけてあなた方を蝕もうとしたのもその一環です。
……そして、先日レイチェルが仕掛けた、侯爵様が生死をさまようほどのあの禁忌の呪いも……実は私が彼女に渡した特製の魔法陣によるものでした」
その告白に、ギルバートはわずかに眉をひそめ、ラーシャをじっと見据えた。
「……ほう。俺をあそこまで追い詰めた、レイチェルの呪いの執念深さもたいしたものだったが――それを受け止め、爆発的な高火力を引き出すあの完璧な魔法陣を作り上げたのはお前か。……恐ろしい技術だな。敵ながら、お前の魔導師としての能力の高さには感心するよ」
褒められているのか貶されているのか分からない言葉に、ラーシャは気まずそうに小さく身を縮こまらせた。
「す、すみません……。あのときは、私も必死で……」
「だが、結果としてその企みは我が妻の聖女の力によって打ち砕かれ、お前はこうして救われた。過去の罪が消えるわけではない。だが、これからはその高い才能を正しく使ってもらうことになる」
ギルバートが冷徹ななかに確かな寛容さを込めて言うと、エカテリーナも優しい笑みを浮かべてうなずいた。
レイチェルとの連絡役を担っていた彼女の口から語られる真実によって、マスターの狡猾な手口と、これまでの事件の裏側が一本の線として繋がっていくのだった。




