第61話
「――先生、ちょっと席を外しますね」
花壇の前で、ラーシャは小さくそう告げた。
エカテリーナが「はい、いってらっしゃい。気をつけてね」と微笑んで送り出すと、ラーシャはその場から少し離れた。
――そして、数分後。
戻ってきたラーシャの姿を見て、エカテリーナは思わず目を丸くした。
「え……?」
さっきまで着ていた制服ではなく、全身をすっぽりと覆う不気味な黒いローブを纏い、顔の大部分を深いフードで隠していたのだ。
(――こうでなきゃ……。いつもの私のままだと、先生に顔を向けられない。冷酷な暗殺者にならなきゃ、私にはできない……!)
震える手で自らを戒めるようにフードを深く被り、ラーシャはすたすたと言葉を失うエカテリーナのすぐそばまで歩み寄ってきた。
「ラーシャさん……? その服装、いったいどうしたの?」
呑気に首を傾げるエカテリーナを前に、ラーシャは震える声で呟いた。
「……先生、ごめんなさい!」
決意を固めたように叫び、ラーシャは持っていた呪術の触媒を地面に叩きつけ、凄まじい速度で足元に呪詛の魔法陣を描き出した。
(……今だ。私の命と引き換えに――!)
ありったけの魔力を込め、至近距離からその呪いを叩き込もうと、腕を突き出したその瞬間。
「――そこまでだ!!」
怒号とともに吹き荒れたのは、すべてを圧倒するような凄まじい聖なる力の風だった。
激しい突風が校舎の裏手を駆け抜け、エカテリーナの栗色の髪や、ラーシャのまとっていた黒いローブの裾を大きく煽り立てる。
その風の勢いに飲まれるように、ラーシャの足元で発動しかけていた呪詛の魔法陣は分子レベルでかき消され、彼女が深く被っていたフードも一瞬で剥ぎ取られるように吹き飛ばされた。
「間に合った……! カティ、怪我はないか!!」
現れたのは、息を切らせたギルバートだった。
血相を変えて駆け寄ってきた彼は、エカテリーナを背中にかばうようにして立ちはだかる。
その冷徹な視線が、目の前で呆然と立ち尽くす人物へと向けられた。フードが取れて露わになった顔を見て、ギルバートはわずかに眉をそびらせる。
「……女だったか。どうりで、黒いフードの男を追っていたところで、尻尾が掴めなかったわけだ」
すべてが露見し、計画は完全に潰えた。
自分を待っていたのは破滅と死だと思った瞬間、ラーシャの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女はその場に膝をつき、冷たい地面に手を突いて、肩を震わせてボロボロと泣きじゃくった。
「……もう、おしまいだ……」
冷酷な暗殺者としての仮面が完全に剥がれ落ち、ただ絶望と恐怖に打ち震える少女の姿。
それを見たエカテリーナは、恐怖におののくどころか、目の前の少女が纏う痛切な悲しみを、痛いほどに感じ取ってしまった。
(この子は……ずっと、たった一人でこんな重荷を背負わされていたの……?)
「……ラーシャさん」
「カティ、おい待て! 何をする気だ、そんな危険なやつに近づくな!」
ギルバートが慌てて制止しようとしたが、エカテリーナはそれを優しく、しかしきっぱりと振り切り、崩れ落ちるラーシャの体をそっとその胸に強く抱きしめた。
「怖かったわね……。こんな若い女の子が、いったいどれだけの過酷な目に遭ってきたというの……。あまりにも……あまりにも、可哀想に……っ!」
エカテリーナの胸からあふれ出たのは、打算や恐怖など微塵もない、純粋すぎるほどの底知れぬ慈悲と憐憫の情だった。
かつて自分自身が孤独と絶望のなかで凍えていた記憶と重なり、目の前の少女の傷だらけの魂を「本気で可哀想だ」と案じるその心が、彼女のなかに眠る聖女としての加護を限界まで引き出してしまう。
次の瞬間、エカテリーナの身体から眩いばかりの温かな聖光があふれ出し、震えるラーシャを優しく、包み込むように包摂した。
それは攻撃でも制裁でもない。心身の澱みをすべて洗い流し、凍てついた心を芯から溶かす、圧倒的な「浄化と癒し」の奇跡だった。
「――っ……あ……?」
聖光に包まれた瞬間、ラーシャの全身を縛り付けていたドス黒い呪詛の気配や、マスターから植え付けられた歪んだ執念、そして長い年月をかけて心に積もり続けた恐怖と憎しみが、春の雪のように少しずつ溶けていった。
体から重い鎖が外れていくようにすっきりと軽くなり、彼女の顔からいつもの陰鬱な翳が完全に消え失せていた。
そこに残っていたのは、過酷な宿命から解放され、ただ穏やかな寝息を立てるように身を委ねる――年相応の少女としての、ラーシャ本来の姿だった。




