第6話
エカテリーナとジュリアスが離婚したという噂は、瞬く間に貴族社会へと広がっていった。
「なんでも、エカテリーナ嬢はものすごい悪女だったそうじゃないか」
「ああ。ジュリアス様にさんざん金や宝石を要求しておきながら、飽きたからと自分から三下り半を突きつけたらしいな」
「それに、結婚して数年も経つのに子供の一人もできなかったって話だ」
「ほかに男でもできたんじゃないのか?」
そんな醜悪な噂話をふと耳にしたギルバートは、すぐさま信頼のおける側近のリチャードに命じ、エカテリーナとジュリアスの結婚生活について徹底的な調査を行わせた。
だが、上がってきた調査書に記されていたのは、世間の噂とは全く異なる真実だった。
エカテリーナは婚姻期間中、高価なドレスなど一切与えられず、まるで下働きの女中のような粗末な生活を強いられていたこと。そして、ジュリアスが連日娼館に入浸り、愛人に湯水のようにお金を貢いでいたこと――その悍ましい実態が、細かく綴られていたのだ。
「あなたは……ずっと……そんな扱いを受けていたのか……」
ギルバートは調査書を強く握りしめ、怒りと激しい後悔に、拳をわなわなと震わせながら呟いた。
すぐさま婚姻の申し込みをするため、エカテリーナの元へ使者を走らせた。しかし、戻ってきた使者からの返事は残酷だった。
――「エカテリーナ様は、もう結婚はこりごりだとおっしゃっています」
歯噛みするギルバートの脳裏に、強い決意が宿る。
「どのような手を使ってでも、今度こそあなたを手に入れてみせる……」
――あれは、俺がまだ十歳の頃だった。
父親たちと遠出をして狩りに出かけた際、夢中になって獲物を追いかけるうちに、俺は一人だけ深い森の奥へと迷い込んでしまった。
どこへ歩けばいいのかも分からずさまよっていると、木々の間に一軒の小さな家が見えた。
ここはヴェルツ子爵家の領地だと聞いていた。せめて現在地だけでも尋ねようと、俺はその家の扉を叩いた。
ギギ、と静かに開いた扉の向こうに立っていたのは、俺より少し年上の少女だった。
柔らかな栗色の美しい髪と、深い茶色の、吸い込まれそうな澄んだ瞳。
俺は一瞬、息を呑んだ。まさかこんな森の奥の小さな家で、これほど美しい少女に出会うとは思っていなかったからだ。
足元では、ぴょこぴょこと跳ねるウサギのような真っ白な小動物が、彼女の足にしがみつくようにしてこちらを警戒していた。少女はその小さな生き物を優しくなでながら、ふわりと微笑んで首をかしげる。
「……あなたは?」
少女が尋ねる。俺は心臓の音がうるさいのも忘れ、緊張しながら答えた。
「す、すまない。道に迷ってしまって……ここはどこだか教えてもらえるかい?」
「ここはヴェルツ領の森ですけれど……だいぶ奥まで来てしまっていますね。よろしければ、出口までご案内しますよ」
「助かる。ありがとう」
俺はその親切な申し出に甘え、彼女のあとをついて歩き始めた。足元には、先ほどの白い小動物もトコトコとついてくる。
並んで歩きながら、少女がふと問いかけてくる。
「あなたはどちらからいらしたの?」
「レイヴン領から来たんだ」
「まあ、少し距離がありますよね?」
「ああ。父の狩りについてきたんだけど、はぐれてしまって……」
「そうでしたの……」
たったそれだけのやり取りだが、俺はこの少女に心を奪われていた。
彼女と話すたびに胸が高鳴り、顔がカッと熱くなって赤らむのが自分でも分かった。こんな気持ちは、生まれて初めてだった。
「もうすぐ出口ですわ」
少女が足を止めて振り返る。その笑顔を見た瞬間、俺の胸に強烈な焦燥が込み上げた。
――嫌だ。もう二度とこの人に会えなくなるなんて、絶対に嫌だ。
「あ、あの! 親切なお方……名前を教えてほしい!」
「私はエカテリーナです。エカテリーナ・ヴェルツといいますわ」
「俺は……」
名乗ろうとしたその時だった。
突如、低い唸り声とともに、一匹の凶暴な獣が茂みから飛び出してきた。
あまりに突然の襲撃に、俺は腰の剣に手をかけることすらかなわない。
――クソっ、もうだめだ……!
その瞬間。
「危ないっ!」
エカテリーナが叫び、なんと俺の前に飛び出して抱きしめるようにかばったのだ。
――馬鹿な、何を考えているんだ!
その時、彼女の体から、眩い光のようなものが一瞬だけふわりと放たれた気がした。あまりの光景に目を奪われていると、その光に驚いたのか、野獣は怯えたように身を翻し、一目散に逃げ去っていったのだ。
俺をかばってくれた彼女が、俺を抱きしめたまま、まだ恐怖で小さく震えていていた――この人は、見た目が美しいだけじゃない。心まで、こんなにも気高く、清らかな人なんだ。
やがて、遠くから俺を探す父――アルフレッド・レイヴン侯爵の声が響いてきた。
――やばい、父に見つかったら、一人で森の奥に入り込んだことや、危機管理の甘さを徹底的に叱責されるだろう! 何より、こんなところで年上の女の子に助けられたなんて知られた日には、一生父親に頭が上がらなくなる。
焦る俺に、彼女は小さく微笑み、まるで幼子をあやすように言ったのだ。
「……大丈夫? 坊や」
ぼうや……?
その響きに、俺の理性は盛大に音を立てて吹き飛んだ。
助けてもらった礼も、名前を名乗ることも忘れ、激しい気恥ずかしさと「男として見られていない」という絶望的なショックのあまり、俺は真っ赤になった顔を隠すように、逃げるようにその場を飛び出してしまったのだ。
――だが、あんな情けない姿のままで終わらせてたまるか。彼女にちゃんと礼を言わなければ、男が廃る!
数日後、俺は拳を強く握りしめ、気合を入れ直して再びあの小屋の扉を叩いた。
「こ、この間は、助けてくれて……その、ありがとう!」
ガチガチに緊張しながら絞り出すと、彼女は目を丸くしたあと、ふっと柔らかく微笑んだ。
「あら、あの時の、坊や? 大丈夫、怪我はなかった?」
「っ……! ぼ、坊やはやめてほしい……!」
とっさに反論したものの、自分の声の裏返りように気づいてすぐさま顔を真っ赤に染める。そんな俺の様子を見て、彼女はくすくすと楽しそうに笑うと、ふと首をかしげて尋ねたのだ。
「じゃあ、お名前はなんて言うの?」
――ギクッとした。
当時は、自分が大貴族レイヴン侯爵家の跡取り息子であると知られると、政略や面倒な思惑に巻き込まれるのを恐れた父から「外では身分を明かすな」と厳しく言われていたからだ。
本当の名前を告げるわけにはいかない。焦った俺は、とっさに自分の名前の後半をもじり、口ごもりながらも偽名を絞り出した。
「……バート、だ。バートって呼んでくれ」
「バート様ね。教えてくれてありがとう」
彼女がふわりと微笑んでくれたことで、俺は心臓が飛び出そうになりながらも、どうにか胸を撫で下ろすのだった。
それから、わずかな期間ではあったが、俺は許された時間を見つけてはその小屋へと通った。当時の俺は父に連れられ、領地をあちこち移動しなければならず、一つの場所に長く留まることができなかった。
ある日の午後、俺たちが小屋の外にある木のベンチに並んで腰掛け、心地よい木漏れ日と風を感じながらのんびりと過ごしていたときのことだ。
足元では、あの時と同じように真っ白な小動物がぴょこぴょこと跳ね回り、安心しきった様子でエカテリーナにちょこんと寄り添っている。
「ここはね、お母様と私のお気に入りの場所なんだ。弟のアランはまだ小さくて、今はお母様も育児でつきっきりだからなかなか一緒に来られないんだけどね」
彼女はそう言って、愛おしそうに足元の動物をそっと撫でながら周囲の木々を見回した。
そういえば――最初に出会った日から、彼女の優しさはいつもそこにあった。森のなかで怪我をした小動物がいれば、自ら薬草をすり潰して懸命に手当てをする。利害関係ばかりの世界で育ったギルバートにとって、彼女の持つ圧倒的な慈悲深さと純粋さは、眩いほど新鮮だった。
(この人は、こんなにも温かい世界で生きている。……俺も、この人の笑顔を守れる男になりたい)
麗しい容姿に惹かれて始まった恋心は、日を追うごとに、彼女の気高い魂そのものへの深い敬愛と心酔へと変わっていった。
ある日の午後、いつしか「カティ」と愛称で呼ぶようになっていた彼女に、俺は勇気を振り絞って切り出した。
「カティ、何か欲しいものとかないか?」
突然の問いかけに、カティは不思議そうに首を傾げて聞き返す。
「えー? バート、なんでそんなこと聞くの?」
その真っ直ぐな瞳に見つめられ、気恥ずかしさを覚えながらも、俺はさらに食い下がる。
「いいから。……好きな食べ物はなんだ?」
「もう、変な人……」と彼女はクスクス笑ったが、俺が「いいから教えてくれ」と少し熱心に問い詰めると、困ったように頬を染めポツリと答えた。
「……イチゴと桃が大好き!」
そう言って、太陽のように可愛らしく笑ったのだ。
彼女の笑顔を守りたい。そう心に誓った矢先だった。父の命により、俺たちは急遽別の領地へと移動しなければならなくなってしまったのだ。
別れ際に「必ず戻ってくる」と告げたかったが、大貴族としてのしがらみと急な移動に阻まれ、俺は彼女の元を離れざるを得なかった。
そして――現在。
俺は、十三年越しでようやく、あの日の少女が暮らす小屋へと自ら足を運んだ。
長い年月を経て、大人の女性になったエカテリーナ。間近で見つめる彼女の姿に、胸が激しく鳴る。
だが、再会の感動に浸る間もなく、彼女の口から紡がれたのは、あまりにも他人行儀な言葉だった。
「レイヴン侯爵閣下、はじめまして。……エカテリーナ・ヴェルツと申します」
凍りつくようなその挨拶に、ギルバートの胸の奥で、静かな執念の炎が激しく燃え上がったのだった。




