第5話
エカテリーナは、自身が持っている、数少ないドレスの中でも一番上等なものに袖を通し、髪もきちんとまとめ、化粧も施してから家を出た。さすがに、侯爵様にお会いするのに、いつも通りの着の身着のままで化粧もしないのは失礼よね。
エカテリーナは、レイヴン侯爵家が差し回してくれた豪華な馬車に揺られ、その圧倒的なる本邸へと向かっていた。
たどり着いた侯爵家は、開いた口が塞がらないほど巨大な敷地を誇っていた。美しく手入れされた広大な庭園を通り抜け、馬車がようやくたどり着いた建物は、もはや要塞か王宮のように大きく、そして気高かった。
馬車の窓から外を眺めながら、エカテリーナは思わずぽつりと呟く。
「へえ……まるでお城ね。掃除するだけでも大変そう……」
一歩ロビーに足を踏み入れれば、天井には眩い高級シャンデリアが輝き、まるで絵画の世界に迷い込んだかのような贅沢な空間が広がっていた。
案内された客間にはふかふかの高級そうなソファが置かれており、使者に促されてそこに腰掛けると、ほどなくしてメイドたちが手際よくお茶とお菓子の準備を始めた。
「あの、お構いなく……」とエカテリーナが恐縮すると、メイドは恭しく首を振る。
「いいえ、そういうわけにはまいりません。侯爵様の厳命ですので」
テーブルの上に並べられたお菓子を見て、エカテリーナは思わず目を輝かせた。なんと、どれも彼女が昔から大好きなものばかりだったからだ。
「わあ……!」
と嬉しそうに顔をほころばせた瞬間、ハッと気づく。
(――あれ? どうして私の好きなものばかり……? まあ、たまたまよね……)
少しだけ不思議に感じつつも大好物を前にしては詮索する気も失せ、「それにしても、美味しそう!」とエカテリーナは満面の笑みを浮かべていた。
その直後、ガチャリと音を立てて客間の扉が開き、レイヴン侯爵――ギルバートが姿を現した。
慌ててエカテリーナがすっと立ち上がり、「レイヴン侯爵閣下、本日は――」と挨拶をしようとすると、ギルバートはなぜか、顔を赤らめ、スッと視線をそらした。
「……そんなにかしこまらないでくれ。あと、その……菓子も遠慮せずに食べるがいい……」
最後の方の言葉は、蚊の鳴くような声で消え入るように呟かれていた。
(え? この人、私のことが嫌いすぎて目も合わせたくないってことかしら……? って、確かにお菓子は美味しそうだけど……)
思った以上に嫌われているらしいと察し、エカテリーナは――まあ、お互い愛のない契約結婚なのだから当然よね、とあっさり気を取り直した。
彼女がソファに腰を下ろすと、向かい側の席に座ったギルバートもぎこちなく姿勢を正す。
エカテリーナはふと小首をかしげ、気になっていた疑問を先に口にした。
「あの、契約の話の前に、一つお伺いしてもいいですか? 侯爵様はなぜ、今こんなにも急いで――それも私のような出戻りの身を相手に、形だけでも結婚しなくてはならなかったのですか?」
質問されたギルバートは、わずかに言葉を詰まらせる。
「……あぁ、その……面倒な令嬢にしつこく言い寄られていてな。どうしても『既婚者』の身分が必要だったんだ。幸い、その令嬢には本来の婚約者がいる。俺が結婚したと知れば、さすがに諦めてその婚約者と結婚して異国で暮らすだろう」
それを聞いたエカテリーナは、納得したように表情を明るくさせた。
「なるほど! 侯爵様ほどのお方にも、そんな厄介な悩みがおありだったのですね。つまり、その面倒なご令嬢が、婚約者と異国に行ってしまえば、もう私と無理に婚姻関係でい続ける必要はないわけですね?」
ギルバートが何か思案しているような様子が見えたが、気にせず、エカテリーナは提案をまとめた。
「では、こうしましょう。婚姻期間はとりあえず二年といたしましょう。どうせ形だけの夫婦ですし。二年も経てばそのご令嬢の件もすっかり落ち着くでしょう。ですから、二年の期限が来たら、円満に離縁ということでいかがですか?」
予想外の「二年」という具体的な期限を突きつけられ、ギルバートは思わず目を丸くした。
「……二年? なぜ、わざわざ二年なんだ?」
問い返されたエカテリーナは、少しだけ視線を泳がせながら、テキトウに手をひらひらと振ってみせた。
「い、いや、なんとなくです! ほら、世間一般的にそのくらいがキリがいいかなって……ね? あまり長くいるとお互いのプライベートの邪魔になりますし!」
(本当は、自分の寿命があと二年だからこれ以上は迷惑をかけられないんだけど、なんて言えるわけないし……)
心の中でそう言い訳しながら、エカテリーナはごまかすようににっこりと作り笑いを浮かべた。
ギルバートは、一瞬、戸惑ったように眉を寄せたが、やがて何かを飲み込むように拳を力強く握りしめ、覚悟を秘めた目で頷いた。
「……あぁ。二年だな。……わかった、それで構わない」
エカテリーナは、「これで互いにメリットがありますわね!」と、心底すっきりしたような晴れやかな笑顔を浮かべている。
「話が早くて良かったですわ。では、政略結婚をお受けするにあたって、事前にしっかりと契約書を交わしておきたいと思います。この条件をご承諾いただけるのであれば、私はこのお話をお受けするつもりです」
ギルバートはまっすぐな眼差しを向け、低い声で応じた。
「ああ、わかった。他には、どのような条件がお望みだ?」
「はい。もう一つの条件としまして、我が弟・アランの将来の約束。これは絶対に契約書に盛り込んでいただきたいのです」
「承知している。他には?」
「あとは、お互いに干渉しないこと。あなたが以前仰っていた通り、私に対しても詮索無用で、それぞれ自由に過ごすという形にしていただきたいです。それと……住まいなのですが、私、結婚後もあの森の小さな家で暮らしたいんです」
そこまで聞いた瞬間、ギルバートの眉間がピクリと動き、即座に否定の言葉が飛んできた。
「――すまんが、住まいに関してだけは認められない。この屋敷で、俺と一緒に暮らしてもらわないと困る」
「えっ……やはり世間体ですかね? そこまでおっしゃるなら、わかりました。了解します」
「……」
納得した様子のエカテリーナを見て、ギルバートは相変わらず眉間にしわを寄せている。
「あとは……そうですね……」とエカテリーナが考え込んでいると、ギルバートがふっと視線を逸らしながら宣言した。
「挙式は挙げる。それも、盛大にな」
「ええっ!? だって私、一度離婚している出戻りの身ですし、わざわざそんな……。あ, そういえば……侯爵様って、初婚ですよね?」
「当たり前だ」
ギルバートは呆れたように、しかしどこか耳まで赤くしながら言い放つ。
「そうですよね……。いくら形式上の結婚とはいえ、男性側が初婚なら、世間体やプライドのためにもちゃんと式は挙げたほうがいいですもんね。わかりました、協力しますわ!」
どこかズレた納得の仕方をしつつ、テキパキと話をまとめるエカテリーナを見て、遠い目をしながらギルバートは盛大に深いため息をつくのだった。
一方のエカテリーナは、自分の病のことも、近づく余命のことも隠したまま、迷惑をかけないための「二年」を勝ち取ったつもりでいたのであった。




