第59話
ギルバートは、側近のリチャードに二つの指示を出していた。
一つは王国を脅かす「黒いフードの男」の追跡。そしてもう一つは、妻・エカテリーナが気にかけている王立高等部の転校生――『ラーシャ』という地方男爵家の娘の素性の洗い直しだった。
冬の日は短く、夕暮れ時はあっという間に訪れる。
ギルバートが執務室で山積みの書類を片付け、そろそろ帰ろうと腰を上げかけた、その時だった。
扉が静かにノックされ、リチャードが険しい表情で足早に入室してきた。
「閣下。例の『黒いフードの男』の足取りについては、いまだに巧妙に姿をくらませており尻尾を掴めておりません……ですが、もう一件のほう――王立高等部に編入してきた『ラーシャ』についての調査結果が出ました」
「……ほう。何かわかったか?」
「はっ。それが――『地方の男爵家』という素性自体が非常に怪しい。そもそも、そんな名目の家が存在するかすら曖昧で、当時の当主の経歴も書類上だけで実体がほとんど掴めません。身元を偽っている可能性が極めて高いかと」
リチャードの報告を聞いた瞬間、ギルバートの背筋に冷たいものが走った。
(身元を偽った素性の知れない者が、なぜカティのいるクラスに……!)
そもそもギルバートは、王立高等部という場所をどこかで過信していた。
あそこは貴族の子女だけが通う格式高い学園であり、一定の家格がなければ入学できない。まさか、そんな厳格なはずの貴族社会のシステムを逆手に取り、見せかけの身元を整えた裏社会の人間が潜り込んでいるなどとは夢にも思っていなかったのだ。
王立高等部なら、素性の怪しい者など簡単には入り込めない――そう、どこかで高を括っていた。
だからこそ、妻の護衛を万全にしながらも、「学内なら安全だろう」と油断していたのだ。
その甘さに、今さらながら血の気が引く。
「――っ!」
ぞっとするような嫌な予感が脳裏をかすめ、ギルバートは今朝のエカテリーナの言葉を思い出した。
『そういえば今日ね、放課後にラーシャさんと一緒に校舎裏の花壇で珍しい冬の花を観察する約束をしたの。少し帰りが遅くなるかもしれないわ』
窓の外を見やれば、冬の空はすでに藍色に染まり始め、夜の帳が下りようとしていた。
「……クソっ!」
普段は冷静沈着な侯爵が珍しく舌打ちをし、椅子の背に掛けてあったコートを掴み取る。
「すぐに高等部へ馬車を走らせるぞ!!」
「はっ!」
* * *
――その頃、校舎の裏手に広がる静かな花壇では。
冷たい冬空の下、エカテリーナとラーシャが並んで小さな花を見つめていた。
「ほら、ラーシャさん。この花ね、日が暮れて寒くなると、自分で花びらをきゅっと閉じて小さくなってしまうのよ。今のうちにその様子を見てみましょうね」
エカテリーナが柔らかく微笑みながらそう言うと、ラーシャは小さくうなずいた。
「本当だ……だんだん花びらが丸まっていきますね。知らなかったです……」
この時期にしか咲かない珍しい冬の花を観察するため、二人は防寒マントをしっかり着込み、白い息を吐きながら並んでしゃがみこんでいた。
「ふう、やっぱり寒いわね。はい、ラーシャさん。冷えたでしょう、温かいココアを持ってきたのよ」
エカテリーナが保温水筒から注いだココアの湯気の立つカップを差し出す。
ラーシャは両手でその陶器のカップを受け取り、じっと見つめた。指先から伝わってくる確かな温もりが、冷え切った体にじわりと染み込んでいく。
「……あったかい、です」
その呟きには、冷徹な魔呪師の仮面など微塵もなかった。
エカテリーナと関わるようになってから、ラーシャのなかで何かが確実に狂い始めていた。
頭を優しく撫でられたとき。温かな手をそっと握られたとき。そして今こうして、自分のためにココアを淹れて差し出してくれる優しさに触れたとき――。
(……おかしい。私は、マスターの命令で、この聖女の命を内側から崩壊させるために近づいたはずなのに……)
エカテリーナと過ごす時間は、ラーシャにとって生まれて初めて知る「温もり」そのものだった。
トゲだらけだった心がゆっくりと解きほぐされ、纏っていたはずの冷たい鎧が音を立てて剥がれ落ちていく。
まるで自分が自分ではないような、奇妙で、しかしどこか心地よい感覚。
自分が人間であることを思い出させてくれるようなその優しさに、ラーシャの胸の奥底が熱く、痛いくらいに締め付けられていた。
しかし、ラーシャの脳裏に、冷たい現実がよみがえる。
(……ダメだ。今日ここで、あの作戦を決行しなければ――もう二度とチャンスはない)
エカテリーナが自分に完全に心を開いている、この無防備な距離。いまの状況でなら、マスターから託された呪詛を完璧なタイミングで叩き込むことができる。
冷酷な任務を遂行しなければならない。そう頭では分かっているのに、心の奥底で別の声が叫んでいた。
頭に響くのは、忘れることのできない過去の記憶だった。
『ラーシャよ、もうこれ以上あの聖女を野放しにはできない』
『――お前をあの飢えから救ってやった恩を、忘れたわけではないだろうな?』
マスターの冷たい声が、脳裏に鋭く響く。そうだ、私は――。
凍てつく寒風の吹き抜けるスラム街で育った幼い日の記憶がよみがえる。母親を亡くし、頼る者もなく、ただその日を生き延びるために、ぼろを纏って泥水をすするように一人でうずくまっていた日々。
そんな、行き止まりの絶望に満ちたある日。
冷たい雪が降る路地裏で、通りがかった一人の男が足を止めた。黒いローブを纏ったその男――バルドだった。
バルドは、飢えと寒さで震える幼いラーシャを見下ろすと、ふっと小さく息をつき、その冷たくも、どこか面倒見の良さを感じさせる手を差し伸べたのだ。
『……ひもじいか。行くあてがないのなら、私のところへ来るといい。生きるための術を教えてやろう』
凍え死ぬだけの命ならと、幼かったラーシャは縋るようにその手を取った。
連れて行かれた先は、人里離れた薄気味悪い屋敷だった。そこには、マスターの下で仕える者たちが集められていた。
(師であるバルド様が私を拾い、ここまで育ててくださった……。その恩に報いるためにも、私はやり遂げなければならないのに……っ)




