第57話
冬空の下、エカテリーナは、いつものように、王立高等部の正門をくぐった。
学園側からの熱烈な申し出を受け、臨時教師として教壇に立つようになってから数週間。
「私で務まるでしょうか」と最初は戸惑ったものの、かつての優秀な卒業生であり、近年の植物研究における目覚ましい功績を見込まれてのことだった。
それに加え、いまや王国を救った「聖女」でもある彼女に、特進クラスの生物の授業をぜひ任せたいと、学園長が直々に頭を下げてきたのだ。
「そんな大げさなものじゃありませんから、学校ではただの『エカテリーナ』でお願いします!」
そう笑って引き受けて以来、彼女は自分の知識を生徒たちに教える充実した日々を送っていた。
そもそも、現代の特進クラスの生徒たちにとって、「数千年前の絵本に出てくるおとぎ話の聖女」など現実味のない伝説にすぎない。王室が勝手に大騒ぎしているだけで、当事者である若者たちからすれば「へえ、あの侯爵家の奥様が教えに来るんだ」程度の認識しかなかった。
だからこそ、生徒たちはエカテリーナが聖女であることを信じていないし、そもそも気にも留めていなかった。
あの日、エカテリーナから「学園から打診を受けたの」と打ち明けられ、目の前では穏やかに「受けてみればいい」と微笑んで見送ったギルバートだったが、内心では盛大に頭を抱えていた。
(カティがやりたいと言うなら、夫として絶対に止めたくない。……だが、万が一、虫けらどもが妻の髪一本でも触れるようなことがあれば、この国のすべてを焼き払うまでだ)
愛妻の意志を尊重したいという理性と、妻を誰にも傷つけさせたくないという狂気的な独占欲のせめぎ合いの末、冷徹な侯爵様は水面下で凄まじいまでの過保護体制を整えた。
まず、エカテリーナが乗る専用の馬車には、ギルバート自身が最高峰の多重防御結界を幾重にも張り巡らせ、あらゆる呪詛や探知魔法を完璧に遮断している。
さらに、屈強な影の護衛たちに加え、あの精鋭騎士ガワンを含めた護衛部隊が、常に周囲の死角を固めながら行路を警護していた。
ただし――。
王立高等部は、王国でも屈指の教育機関である。
学園そのものに強固な防護結界が張り巡らされているうえ、教師陣にも優秀な魔術師や騎士が揃っている。
万が一、何か起きたとしても、学園だけで十分に対処できる――ギルバートも、そのこと自体は理解していた。
だが。
(……それと、カティを心配することは別問題だ)
そう考えたギルバートは、学園側の防護を邪魔しない範囲で、念のための備えだけは整えておくことにした。
学園内に直接手を出すような真似はせず、緊急時にのみ知らせが届くよう、信頼できる者たちに密かに目を配らせている。
もちろん、エカテリーナにはそんなことを一切悟らせない。
――妻が安心して教壇に立てるのなら、それでいい。
そして、その一方で。
ギルバートの当初の懸念通り、男女共学の特進クラスでエカテリーナが教壇に立つやいなや、思わぬ「事態」が起きていた。
年上の凛とした美しさと、年下のような可愛らしさを併せ持つ彼女が、熱心に黒板へチョークを走らせる姿は、多感な男子生徒たちの目を釘付けにするには十分すぎたのだ。
(おい、今日の生物の授業、やけに目の保養にならないか……?)
(侯爵夫人だぞ、あまり見すぎるなよ……でも、笑顔が眩しすぎるだろ……)
最前列や窓際の男子生徒たちは、ノートを取るふりをしながら、エカテリーナの爽やかな笑顔や仕草にすっかり見惚れ、密かに頬を染めていた。
もし、この光景をギルバートが知ったなら――。
学園の防護結界とは何の関係もないところで、別の意味の「危険」が発生していたことだろう。
もっとも、そんなギルバートの過保護ぶりなど知る由もないエカテリーナは、
「最近の馬車は乗り心地がいいし、生徒たちもみんな授業に真剣で嬉しいな!」
などと、のほほんと平和な日常を満喫しながら、毎日元気に通勤していたのである。
そんなある日のこと。職員室で、エカテリーナは担任から「今日から、このクラスに転校生が来ます」と告げられた。
実際に授業の準備のため教室に行くと、教室内は妙なざわめきに包まれていた。
「ねえ、聞いた? 今日からこのクラスに新しい転校生が来るんだって」
「地方の寂れた男爵家からの編入らしいけど、こんな時期に特進クラスなんて浮かない?」
ざわめく生徒たちの視線の先には、一人の少女が立っていた。
美しい、どこか不気味なまでの紫色の髪と瞳。そして、周囲を寄せ付けない陰鬱な雰囲気を纏ったその少女――ラーシャは、担任に促されて教室の隅の席へと静かに座った。
その日から、ラーシャの孤立はすぐに始まった。
もとから特進クラスの空気に馴染めない上に、地方の男爵家という地味な出自を面白半分に冷やかす者も現れた。休み時間になると、派手な装飾品を身につけた女子生徒のグループがラーシャの机を囲み、わざと教科書を叩くようにして笑い声を上げた。
「ねえ、地方の男爵家から来たんだっけ? 田舎から出てきて浮かれてるんじゃないの、ここ特進クラスなんですけど」
「ほんと、空気読めないよねー。なんでそんなに暗いの?」
嫌がらせを受けても、ラーシャは悔し涙を流すわけでも、喚き散らすわけでもなかった。ただ冷ややかな、まるで底の知れない沼のような紫色の瞳で、じっと相手を見つめ返すだけだ。その異様な静けさに気圧されたのか、派手なグループは「気味の悪いやつ」と吐き捨てて去っていった。
遠くからそのやり取りを見ていたエカテリーナの胸に、ギュッと締め付けられるような痛みが走る。
(転校してきたばかりで、あんなふうに孤立してしまうなんて……放っておけないわ)
エカテリーナはすぐにラーシャの席へと歩み寄り、優しく声をかけた。
「ラーシャさん、大丈夫? もし困ったことがあったら、いつでも私に言ってね。……それに、あまり周りの心ない言葉は気にしなくていいのよ」
エカテリーナがやんわりと、しかし毅然とした態度で周囲を戒めつつ優しく微笑むと、ラーシャは少しだけ目を見張った。そして、その陰鬱だった表情をふっと緩め、儚げにうなずいた。
「……はい。ありがとうございます、先生」
その日から、ラーシャの態度に変化が訪れた。
ある日の放課後、職員室に残っていたエカテリーナのもとに、ラーシャが静かにやってきたのだ。
「あの……エカテリーナ先生。先日の授業の植物栽培の応用について、少しお聞きしてもよろしいでしょうか」
おずおずとした様子で視線を伏せる少女は、教室で見せた冷たい雰囲気をすっかり潜め、どこか頼りなげで可憐な生徒そのものだった。
紫色の瞳をぱちぱちとさせながら、熱心に質問を投げかけてくる姿に、エカテリーナの教師としての母性や優しさが刺激される。
「ええ、もちろんよ。ラーシャさんは本当に熱心ね」
にっこりと微笑んで教科書を開くエカテリーナに、ラーシャは心底嬉しそうな、しかしどこか人間離れした美しい笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、先生。先生に教えていただけると、すごくよく分かるんです。……私、転校してきたばかりでこの学校には馴染めなくて、ずっと孤独だったから……先生が優しくしてくださって、本当に嬉しいです。私、先生のことが大好きです」
その言葉には、切なさと純粋な慕情が込められているように聞こえた。 エカテリーナは、孤立していた転校生の少女が自分に心を開いてくれたのだと思い込み、「何か困ったことがあったらいつでも相談してね。これからはずっと味方だから」と優しく頭をなでた。
その温かく、ふわりと髪を撫でる掌の感触に、ラーシャの紫色の瞳が微かに揺らいだ。 だが――。 すぐに彼女は、エカテリーナに見えない角度で、その口元をぞっとするような歪んだ弧を描かせた。
(ふふ……愚かなことだわ。世間ではありがたがられているらしいけれど、目の前のこの女は、ただの生徒思いのお人好しな女にすぎない。まさか、この私があの組織の『ラーシャ』だとは、夢にも思っていないでしょうね……)
ラーシャは、エカテリーナの懐に潜り込むための芝居を楽しんでいた……。
親しげに近づき、警戒心を完全に解かせる。隙を作らせたその瞬間、用意周到に練り上げた致命的な呪術を叩き込み、あの忌々しい聖女の命を内側から崩壊させてやるのだ。
無邪気に自分を信じ、温かい笑顔を向けてくれるエカテリーナを目の前にしながら、ラーシャの心底には、ねっとりと煮え滾るような殺意と、名前のつかない微かなざわめきが、心の奥底で小さく波打っていた。
王立高等部での一日を終え、エカテリーナは夕方、見事に安全管理された専用馬車で帰宅した。 屋敷の食堂。温かな灯りの下で、夫であるギルバートと二人並んで夕食の席についている。
「――それでね、今日から特進クラスに新しい転校生が来たのよ」
エカテリーナは、フォークを動かしながら、今日あった出来事を嬉しそうに語り始めた。 地方の男爵家から編入してきたという、少し陰のある少女・ラーシャのこと。そして、教室でクラスメイトから心ない冷やかしを受けていたこと。
「地方の寂れた男爵家だっていうだけで、周りの子たちが面白半分にからかっていて……。見ているだけで胸が痛むのよ。……私も昔、不遇な境遇だった頃の記憶があるから、そういう場所で虐げられる辛さは、痛いほどよく分かるの」
遠い昔の自分を重ね合わせるように、エカテリーナは切なげに眉を下げた。
そんな妻の姿を、ギルバートはどこまでも愛おしげな瞳で見つめ、ふっと柔らかく微笑む。
「……カティは、本当に優しいな」
惚れ直したと言わんばかりの眼差しでそう呟きながら、ギルバートはエカテリーナの皿にそっと料理を取り分けてやる。
愛しい妻のその慈悲深い性格を、ギルバートは心から愛し、尊く思っていた。
――だが、愛しているからこそ。
食事を終え、エカテリーナが入浴へと向かったその隙に、ギルバートは自室で側近のリチャードを静かに呼び寄せた。
「リチャード。……王立高等部に編入してきた『ラーシャ』という地方男爵家の娘について、素性を洗い直せ。胡散臭い裏の繋がりがないか、徹底的に調べるんだ」
「はっ、直ちに」
背を向けかけた側近を引き止め、ギルバートはもう一つ、低い声で問いかけた。
「……そうだ。例の『黒いローブの男』の一件、奴らの残党の足取りについては何か新しい進展はあったか?」
「いえ、いまだに巧妙に姿をくらませており、居場所を特定するには至っておりません。ですが、引き続き網を広げて追跡させております」
「……そうか。手間を取らせるが、引き続き徹底的に洗え」
「はっ」
リチャードが静かに一礼して退室していくと、ギルバートはバルコニーへ出て、夜の王都を見下ろしながらふっと息をついた。
――もちろん、ラーシャという娘について調べさせるのは、過保護な夫としての念のための確認でもある。
エカテリーナの話を聞いた限りでは、転校してきたばかりで周囲に馴染めず、少し影のある少女というだけだった。
それでも、ギルバートは長年、数多くの敵と対峙してきた。
何となく気になる――そんな些細な違和感を、彼は決して軽視しない。
とはいえ、今のところラーシャがエカテリーナに危害を加えようとしているという証拠は何もない。
だからこそ、ギルバートは余計な干渉をするつもりもなかった。
それよりも、今の彼が警戒しているのは――あの「黒いローブの男」の存在だった。
(レイチェルの背後にいた、あの男……。いまだに尻尾すら掴めていない)
レイチェルは死んだ。
だが、彼女が使っていた禁忌の呪術を教えた者が、まだどこかに潜んでいる。
その男が再びエカテリーナを狙わないという保証はない。
だからこそ、ギルバートは王都の内外に広げた捜索の網を、決して緩めるつもりはなかった。
(……カティには、何も心配させる必要はない)
今はただ、愛する妻が安心して教師としての日々を楽しめている。
それだけで十分だった。
「……まあ、カティが平穏な学園生活を楽しめているなら、それでいい」
そう呟くと、ギルバートは静かにグラスを置いた。
平穏な日常の裏側で、二人の運命を大きく変える出来事が、静かに動き始めていた。




