第56話
石造りの冷たい部屋の奥深くで、深々とフードを被ったマスターと呼ばれる男が、微かに蠢く黒い靄を見つめながら口元を歪めた。
レイチェルという手駒を失い、想定外の『光』を目の当たりにしたものの、彼らが長年かけて溜め込んできた呪詛のエネルギーは、着実に限界点へと近づいていた。
かつて彼らの野望を阻んだ忌まわしい封印を打ち破る日は、すぐそこまで迫っている。
男の狂気じみた笑い声だけが、冷たい石壁に反響していた。
* * *
一方、その不穏な気配など微塵も感じさせないほど、ギルバートの屋敷には穏やかで輝かしい日差しが降り注いでいた。
「わあ……! すごい、本当に一晩でこんなに立派に育つなんて!」
屋敷の裏手にある日当たりの良い庭園の一角で、エカテリーナは声を弾ませた。
彼女の目の前には、たわわに実った色鮮やかなトマトや、ツヤツヤとしたナス、そして青々と葉を茂らせた葉物野菜が、まるで魔法のように群生している。
エカテリーナの周りでは、淡い光を帯びた妖精たちが「どう?」「すごいでしょう!」とばかりに胸を張り、誇らしげに宙を舞っていた。
再び、ギルバートの屋敷で暮らすようになってから、エカテリーナの日常にはいくつかの変化があった。その一つが、この土いじりだ。
もともと植物を育てるのが好きだった彼女が、気晴らしに小さな家庭菜園を作り始めたところ、妖精たちが面白がって力を貸してくれたのだ。
すると、ただでさえ豊穣な精霊の力が宿る彼女の魔力と妖精の力が合わさり、作物は規格外の速さで、しかも信じられないほど美味しく実ることがわかった。
「妖精さんたち、本当にありがとう。これなら……」
エカテリーナは、収穫したばかりの瑞々しいトマトを手のひらに乗せながら、真剣な顔つきで思考を巡らせた。
ギルバートが治めるレイヴン領は広大だが、中には土壌が痩せて作物が育ちにくい村もあると聞いている。
もし、この自分が無意識に放っているらしい「植物を活性化させる力」や妖精たちの力をうまくコントロールし、領民たちの農業に適用することができれば、少しでも彼の役に立てるのではないか。
エカテリーナは最近、そんな実験めいたことにも熱心に取り組んでいた。
ただ守られるだけではなく、愛する彼を支えられる存在になりたい。それが今の彼女の切実な願いだった。
「――カティ。またそんなに熱心に土と睨めっこしているのか?」
背後から掛けられた優しく甘い声に、エカテリーナが振り返ると、騎士の執務着を少し着崩したギルバートが、眩しいものを見るような眼差しで彼女を見つめていた。
彼は歩み寄ると、土で少し汚れたエカテリーナの頬を、愛おしそうに指の腹でそっと拭う。
「ふふ、バート。見て、妖精さんたちのおかげで大豊作なの。これを領地の痩せた土地に活かせないかと思って……」
「カティは本当に優しいな。……だが、無理をして倒れたりしないでくれよ。俺にとっては、君が笑ってそばにいてくれるだけで十分なんだから」
ギルバートは優しく微笑みながら、エカテリーナの額に軽くキスを落とした。
甘い空気に包まれながら、エカテリーナは思い出したように、少し改まった表情で切り出した。
「あのね、バート……実は、王立高等部からお話をもらったの。特進クラスの生物の先生が産休に入ってしまったらしくて……学園側から、私に臨時の教鞭をとってくれないかって打診があったのよ」
貴族たちに勉強を教えるのはもちろん、歴史ある高等部の教壇に立つなど、自分に務まるのだろうかとエカテリーナは少し不安げに眉をひそめた。
以前のギルバートであれば、「そんな面倒な仕事は引き受けるな」と即座に反対し、彼女を屋敷の奥深くに囲い込もうとしたかもしれない。
あの圧倒的な独占欲と、彼女を失うことへの過剰なまでの恐怖を知っているエカテリーナは、少し恐る恐る彼の反応を窺った。
しかし、ギルバートは少し考える素振りを見せた後、静かに微笑んだ。
「カティがやりたいなら、受けてみればいい」
「え……? いいの?」
「ああ。……正直に言えば、今でも君を誰の目にも触れない場所に閉じ込めて、一生俺だけを見ていてほしいという黒い感情はある。だが……カティは強い。君は、誰かに守られて鳥籠の中にいるだけの女性じゃない。ちゃんと自分で自分の人生を歩きたい、外の世界で自分の価値を試したいと願っているんだろう? だったら、俺は君の意志を尊重する。君の翼を折るような真似は、もう二度としないと誓ったからな」
ギルバートの真っ直ぐで誠実な言葉に、エカテリーナの胸の奥が熱くなるのを感じた。
すれ違いを乗り越えた彼は、彼女のすべてを受け入れ、信じてくれている。
「ありがとう、バート……!」
エカテリーナは嬉しさに耐えきれず、彼のがっしりとした背中に腕を回して抱きついた。
――だが、ギルバートの胸中では、愛おしさと「ほかの奴らにカティを奪われるかもしれない」という焦燥感が入り交じり、内心で盛大に悶絶していた。
(うぐっ……! か、可愛い、抱きついてくれた……! いや待て、あんな広くて男も女もいる学園に毎日通うのか? 俺以外の視線がカティに向くなんて耐えられるのか……っ!? いや、だめだ紳士であれ、俺は妻の翼を折らないと誓ったんだ……! だがしかし、特進クラスの貴族どもが生意気にもカティの笑顔を見上げるなんて想像しただけで、胃に穴が空きそうだ……ッ!!)
表面上はどこまでも穏やかで頼もしい夫の顔を崩さぬまま、ギルバートは、愛おしげに彼女をきつく抱きしめ返すのだった。
* * *
ギルバートの献身的な愛に包まれて幸せな日々を送るエカテリーナには、一つだけ不可解な変化が起きていた。
「圧倒的な光」を放ち、聖女としての力が覚醒したと思われるあの日以来、エカテリーナは夜の微睡みの中で、時折不思議な夢を見るようになったのだ。
その夢は、いつも同じ光景から始まる。
どこか見知らぬ、しかしひどく懐かしい荒野。夜空には巨大な月が冷たく輝いている。
そこに立っているのは、おそらく「自分」なのだろう。しかし、身に纏っているのは見たこともない純白の神官服のような装束だった。
夢の中の「自分」は、月を見上げてポロポロと大粒の涙を流している。
足元には、誰かが血を流して倒れている気配がするが、その顔はいつも霞んで見えない。ただ、胸を掻き毟るような悲しみと、張り裂けそうな後悔だけが、生々しい感情としてエカテリーナの心を締め付ける。
やがて、夢の中の彼女は決意に満ちた表情で涙を拭い、大地に向かって両手を広げる。
足元から浮かび上がるのは、恐ろしいほどの熱量と光を放ち、圧倒的な存在感を誇る巨大な魔法陣。
『――私のすべてを懸けて、お前たちを永遠に封じる』
そんな声なき声が響いた瞬間、彼女の身体から溢れ出した命の輝きそのものが、邪悪な黒い靄を飲み込み、魔法陣ごとすべてを消滅させていく。
そこで、夢はいつも唐突に途切れるのだ。
「っ……!」
その夜も、エカテリーナは浅い呼吸とともに目を覚ました。
頬には、夢の中の自分と同じように、冷たい涙が伝っている。心臓が早鐘のように打ち、得体の知れない悲しみと焦燥感が身体の奥底で燻っていた。
いったい、あの夢は何なのだろう。あの涙を流していた女性は、本当に自分なのか。そして、あの命を懸けた魔法陣が消滅させたものは――。
不安に震えるエカテリーナの肩を、隣で眠っていたギルバートの大きく温かい腕が、無意識のうちに引き寄せた。
「……ん……カティ……?」
寝ぼけ眼の彼が、エカテリーナを安心させるようにぎゅっと抱きしめ、広い胸に彼女の頭を引き寄せる。
その規則正しい心音と、彼から香る安心する匂いに包まれると、先ほどまでの恐怖が嘘のようにスッと溶けていった。
(……大丈夫。今は、バートがいてくれるもの)
エカテリーナはそっと彼の腕にすり寄り、再び静かに目を閉じた。
遠い過去の記憶なのか、それともただの夢なのか――。
その意味を、エカテリーナ自身はまだ知る由もなかった。




