第55話
「――ラーシャよ。ついに聖女が覚醒してしまったではないか」
影に沈む玉座のような重厚な椅子に腰掛け、足元まで覆う深いローブの男が、微動だにせず低く呟いた。
石造りの冷たい部屋には、わずかに揺らめくロウソクの火だけが、男の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
床に片膝をつき、美しい紫色の髪を揺らしながら頭を垂れているのは、レイチェルの裏で暗躍していた禁忌の魔呪師――ラーシャその人だった。
その紫色の瞳には、わずかな焦りと恐怖の色が宿っている。
「……申し訳ありません、マスター。もっと早くに、あの娘を始末できるはずだったのですが……」
しかし、ラーシャが言葉を続けようとしたその時、彼女の少し後ろに控えていたもう一つの人影が、すっと歩み出た。
黒いローブを纏った男――バルドだった。
バルドはラーシャを庇うように一歩前へ出ると、冷ややかな声のままマスターに向かって深く頭を下げた。
「マスター。ラーシャだけの責任ではありません。私はこれまで、彼女の指導者として呪術のすべてを叩き込んでまいりました。聖女の覚醒というイレギュラーは、私の指導不足でもあります。どうか彼女への咎めは、私にもお与えください」
バルドの凛とした、しかし愛弟子を慈しむような忠誠心のこもった進言に、床にひざまずいていたラーシャがわずかに目を見開き、ハッとした表情で師であるバルドを見上げた。
ふたりを見据えながら、ローブの男――マスターはゆっくりと椅子にもたれかかり、遠い過去を思い出すように、掠れた声で語り出した。
「……ふん、指導者であるバルドがかばうか。まあいい。今さら悔やんでも仕方あるまい。だが、事態は最悪だ」
男の口元が、闇の中で歪んだ笑みを描く。しかし、その目は一切笑っていなかった。
「はじめは、ギルバート・レイヴンだ。あいつが聖騎士として覚醒する前……まだ幼い頃のことだ。聖騎士の血を引くあいつには、生まれつき聖なる加護があった。だから直接の呪詛は効かん。だからこそ我々は、ヴェルツの森に凶暴な野獣を放つという物理的な手段で、ひそかに始末しようとしたのだ」
「……レイヴン家の若き跡取りを、ですか。……直接の呪詛が効かないからこそ、野獣を仕向けるしかなかったのですね」
ラーシャがバルドにそっと視線を戻しつつ、慎重に言葉を挟むと、ローブの男は鼻で笑った。
「そうだ。あいつの父親であるアルフレッドとは、昔から浅からぬ因縁があってな。だからこそ、その息子であるギルバートが聖騎士として覚醒する前に、芽を摘んでおこうとしたのだ」
男の口元が歪む。
「だが、計算外だった。たまたまそこに居合わせた、あのヴェルツ子爵家の令嬢――エカテリーナが、自らを犠牲にしてレイヴンを庇った。……あの娘の中から溢れ出した微弱な光……。まさか、あれが眠れる『聖女』の覚醒の萌芽だったとはな」
冷や汗が額から床へ滴り落ちるのも構わず、ラーシャは紫色の瞳をわずかに見開いて言葉を継いだ。
「……私が聞いた話では、そのとき放たれた野獣は、呪術によって狂暴化していたはずなのに、少女の放ったわずかな光を見ただけで恐れおののき、逃げ出した挙句に心臓マヒを起こして絶命したとか……信じがたい話ですが」
「だからこそ、警戒すべきだったのだ。レイチェルという凡愚を利用して、エカテリーナを呪いで蝕み、時間をかけてじわじわとすり潰す計画だったが……結局のところ、本物の聖女としての覚醒を促す最高の触媒になってしまったというわけか」
ローブの男は重々しく立ち上がると、カサリと不気味な布擦れの音を立てて、床にひざまずくラーシャを冷たく見下ろした。
「レイチェルは自業自得で消えた。だが、聖騎士ギルバートと、真の聖女となったエカテリーナ。あの二人が揃った今、この国は我々にとって最も危険な場所となった。……ラーシャ、今回の失態の落とし前、どうつけるつもりだ?」
マスターの冷酷な問い詰め方に、バルドが再び一歩前に出ようとした。だが――。
「……バルド様、大丈夫です」
ラーシャが静かに、しかしきっぱりとした声で師を制した。
彼女はゆっくりと顔を上げ、冷たい光を宿した紫色の瞳でマスターをまっすぐに見据える。
「ご心配には及びません、マスター。あのような失態、二度と繰り返すつもりは毛頭ありません。バルド様の指導不足だなどと言わせはしません。すべての責任は私が負います」
ラーシャはそのまま深く頭を垂れ、覚悟に満ちた声で言い放った。
「聖女の力が完全に定着する前に――今度こそ、あの二人を、私自身の手で始末してご覧に入れます。私に次の機会をください」
そのラーシャの頑ななまでの決意を聞き、マスターは満足したのか、闇の中で不気味な息を漏らした。
「……いいだろう。お前のその執念、見せてもらうぞ、ラーシャ」
マスターが冷たく言い放つと、冷たい部屋に、不気味な笑い声が静かに響き渡るのだった。




