第54話
ハワード家の騒動が幕を閉じ、王宮での盛大な祝宴も終わった。
その後――。
ギルバートとエカテリーナの間には、以前のような形だけの契約結婚という壁はもうどこにもなかった。
お互いの胸に秘めていた想いが真っ直ぐに通じ合い、二人は今、夢のように甘く穏やかな新婚の日々を過ごしていた。
(契約結婚なんかじゃない……! 俺たちはもう、正真正銘の本物の夫婦になったんだ……!)
心の中で何度そう呟いても胸が高鳴るのを抑えられないギルバートは、エカテリーナと過ごす日常のすべてが愛おしくてたまらなかった。
そんなある日のこと。
執務室で書類仕事に目を通していたギルバートのもとに、ジュリアス・ハワードが現れた。
彼は、すべてを失い、平民として生きる道を選んだ。
かつての華やかな貴族としての面影はなく、素朴な旅装束をまとったジュリアスは、静かに頭を下げて切り出した。
「……突然の訪問、失礼します。閣下」
「ジュリアス……」
「遠くの地方へ発つ前に、どうしてもお伝えしておきたくて……。エカテリーナには、本当にひどいことをした。俺が母に操られていたとはいえ、彼女を深く傷つけた事実は消えません。だから、もう彼女の前に顔を出す資格はないと思っています」
そう言って、ジュリアスは懐から一枚の布きれを取り出し、両手でそっと机の上に置いた。
「これを、エカテリーナに返してほしいんです。彼女には会わないほうがいいと思うから……閣下から渡していただけませんか」
差し出されたのは、少し色褪せた、けれど丁寧に洗われた一枚のハンカチだった。
ギルバートは鋭い眼光でそのハンカチを見つめると、ジュリアスを真っ直ぐに見据えて問うた。
「……本当に、これでいいんだな」
ジュリアスは迷うことなく、穏やかに首を縦に振った。
「ええ。これからは過去を悔い改めて、自分の足で真面目に生きていきます。……彼女に、よろしくお伝えください」
それだけ言い残すと、ジュリアスは静かに執務室を去っていった。
その後ろ姿に、かつての傲慢さは微塵もなく、どこか吹っ切れたような清々しさすら漂っていた。
* * *
夜。
暖炉の火がパチパチと心地よい音を立てる自室で、ギルバートはソファーに座るエカテリーナの隣に腰を下ろした。
「カティ。今日、ジュリアスが来た」
「ジュリアスが……?」
驚くエカテリーナに、ギルバートはあのハンカチを取り出してそっと手渡した。
「あいつが、『カティに合わせる顔がないから、これを返してくれ』と言って置いていったんだ。カティに借りたままになっていたものらしい」
エカテリーナは差し出されたハンカチを受け取り、その刺繍や布地をじっと見つめた。
すると、彼女の瞳に懐かしさが浮かび、ふっと力の抜けるような柔らかな笑みがこぼれた。
「まあ……これは! 高等部の頃のものだわ」
「高等部?」
「ええ。……ジュリアスったら、ハンカチも持ってなかったのよ。手が濡れているのに自分のズボンで拭いてたの。それを見ていられなくて、私が貸してあげたのだったわ」
思い出を語るエカテリーナの声はどこか楽しげで、遠い学生時代に思いを馳せている。
だが、それを聞いた瞬間、ギルバートの端正な顔がわずかにぴくりと引きつった。
(……高等部だと? 俺が厳しい訓練や遠征で、泥まみれになって魔物と戦っていた頃、ジュリアスはカティと同じ学舎で、日常を共有していたというのか……?)
カティの知る過去の時間を、自分以外の男が間近で見ていたという事実。
ほんの些細な過去の記憶であると頭では分かっていても、心の底からふつふつと黒い独占欲と激しい嫉妬が湧き上がってくる。
ギルバートはぐっと唇を引き結ぶと、拗ねたような、少し子どもっぽい声音でボソリと呟いた。
「……なんだそれ。ずるいな」
「えっ?」
「俺だって、カティと同じ学校に通って、カティからハンカチを借りたかった。笑ったり、困った顔をするところも、全部そばで見たかった。……俺の知らないカティの一面を、あいつが知っているなんて面白くない」
腕組みをしてそっぽを向くギルバートの姿に、エカテリーナは目を丸くし、それからくすくすと上品な笑い声を立てた。
まさかあの最強の聖騎士である夫が、これほどまでヤキモチを焼いているとは思わなかったのだ。
「ふふ、バート。そんな昔のことに嫉妬するなんて」
「俺は嫉妬深いぞ。何と言っても十三年間、いつだって、カティのすべてが欲しかったんだからな」
照れくささも交じっているのか、ギルバートはふっと悪戯っぽく笑い、その大きな体を折りたたむようにしてエカテリーナの胸にぐっと顔をうずめた。
「だから、これからは俺との思い出だけでカティの時間を埋め尽くしてくれ。……いいな?」
「……はい、喜んで」
甘えてくる夫の銀髪を優しく梳きながら、エカテリーナは愛おしそうに微笑み返す。
二人の未来には、もう嫉妬もすれ違いもいらない。
――これからは、二人のための時間だけを紡いでいくのだ。
すっと顔を上げたギルバートが、愛しい妻の笑顔に魅入られるように、彼女の唇へと優しく自身の唇を重ね合わせた。
ただ温かな愛おしさだけが、満天の星空の下、静かな夜の部屋をいつまでも優しく包み込んでいた。




