第52話
それから数日後、ギルバートの屋敷に思いがけない来訪者が現れる。
それは、エカテリーナの実の父親であるロバート・ヴェルツ子爵だった。
応接室に通されたロバートは、やつれた顔でエカテリーナの前に立つと、震える声で絞り出した。
「カティ……。本当にすまなかった……!」
これまでの冷遇が嘘のように、ロバートは娘の手を取り、涙を流して謝罪を繰り返した。
「なぜあんな後妻や連れ子を家に入れ、お前をあんな目に遭わせていたのか……我ながら信じられないんだ。だが、数日前にあの圧倒的な光を見てから、まるで頭にかかっていた霧が晴れたように正気に戻った。あいつらのせいで家財は売り払われ、財産は散財され、屋敷はめちゃくちゃにされていたんだ……。気づいたときには手遅れだったが、もう追い出した。それに……亡くなったマリアのことも、レイチェルが裏で呪いをかけていたなんて知らなかった……。気付けなかった俺を許してくれとは言わないが、もしよかったら、ヴェルツ家に戻ってきてくれないか……?」
今のロバートの瞳にはかつての温厚で愛情深かった「本当の父親」の面影が戻っていた。目の前の父が同じようにレイチェルに操られていた被害者の一人なのだと知ったエカテリーナは、静かに首を横に振った。
「お気持ちはとても嬉しいです、お父様。でも……私はもう大丈夫です。今ではギルバート様が、私をとても大切にしてくださっていますから」
その言葉を聞いたロバートは、驚きと安堵が入り混じった複雑な表情を浮かべたが、やがて愛娘の幸せそうな姿を認め、深く頷いた。
「そうか……。お前をこれほど大切にしてくれる人が現れたんだな。本当に……よかった」
娘の笑顔を見て安堵したのか、ロバートはどこか寂しげな微笑みを浮かべた。
「カティ! いつでも気軽に屋敷に訪ねておいで!」
そう明るく言い残すと、父は軽やかな足取りで屋敷をあとにしたのだった。
――もっとも、エカテリーナ自身は、あのとき自分から放たれたはずの「圧倒的な光」の正体や、ギルバートが口にする「聖女」という言葉について、いまだに自分がそれだという実感が持てぬまま、首をかしげているのだが。
* * *
そんな平和な日常が戻ったある日、王宮から急使がやってきた。
数日前の事件における混乱を収め、王国を救ったことへの謝意を示したいとして、エカテリーナとギルバートの二人が揃って王宮へ招かれたのだ。
数日後に控えた式典のため、ギルバートが用意してくれたのは、息を呑むほどに美しい仕立てのドレスだった。
そのドレスを見て思わず「綺麗……」とエカテリーナがため息を漏らす。
すると、ギルバートはあの月光石のアクセサリーが収められている宝石箱を差し出した。
「カティ、これを……」
そこには変わらず、神秘的な光を湛える月光石のネックレスとイヤリング、それから、かつて彼女が「返そう」と置いていった月光石の指輪が収められていた。
ギルバートは少し気恥ずかしそうに目を伏せる。
「……カティ。あのとき、この宝石は『レイヴン家の伝統で妻が身につけるものだ』と言ったが……あれは嘘だったんだ」
「え……?」
エカテリーナが思わず小さく声を漏らすと、ギルバートはふうと大きく息をつき、まっすぐに彼女の瞳を見つめた。
「カティと俺の間には、もう嘘も隠し事もしたくないんだ。だから、本当のことを話させてほしい」
静まり返った部屋で、ギルバートは少しだけ遠くを見るような目をしながら、過去の秘密を語り始めた。
「……実は、カティのためにと、この石を取りに行っていて、俺は討伐から帰還するのが遅れてしまったんだ」
それは、ギルバートが十八歳で聖騎士となってから、二十歳で王都へ帰還するまでの間の出来事だった。
世界各地で魔物が発生し、討伐に明け暮れていたある日のこと――。
陣地で兵士たちが「月光石というものがあるらしい」と噂しているのを耳にしたのだ。
『月光石ってどんなものだ?』と問うたギルバートに、地元の兵士たちはこう答えた。
『それをプレゼントされた女性は、永遠に幸せでいられるという伝説があるんです。むかーしむかし、聖女様がいた時代にさ、その聖女様のことを愛している騎士がいてさ、その人が聖女様を庇って死んじゃうんだけどさ、そのときに聖女様がその騎士を思って、月を見ながら流した涙が月光石と言われているんですよ』
その話を耳にしたとき、なぜだかギルバートは強烈な予感に駆られた。
――この石を、絶対にエカテリーナのために持ち帰らなければならない。
だが、その月光石がある場所には、屈強で凶悪な魔物の巣が陣取っていた。それを片付けるのに思いのほか手間取り、討伐は長引き、予定よりも帰還が遅れてしまったのだ。
「本当は、戻ったらすぐにこの月光石をカティにプレゼントして、求婚するつもりだったんだ。だが……そのときには、もうジュリアスとの婚約が決まっていた」
ギルバートはふっと自嘲気味に笑い、かすかに声のトーンを落とした。
「……正直に言えば、カティが別の男の婚約者として笑っているのを見るのは、気が狂いそうになるほど耐えがたかったがな。あのときは、力づくでもカティをさらってしまおうかと本気で悩んだものだ」
「え……?」
思わぬ重すぎる本音をサラリと告げられ、エカテリーナは目を丸くした。
(だから、夜会のたびに私のことをずっと遠くから見ていたのね……。あれは、睨まれていたわけじゃなくて……っ)
ギルバートはふっと悪戯っぽく、しかし真剣な眼差しで彼女を見つめる。
「だから、もう二度と離さない。カティを泣かせる奴は、俺がすべて排除する――カティは、最初から俺のものだ」
その言葉を聞いたエカテリーナは、胸が熱くなり、思わずふっと笑みをこぼした。
「本当に……運命の悪戯というか、すれ違いだったのね……。でも、これからはずっと一緒よ」
エカテリーナが穏やかにそう微笑んだ瞬間、ギルバートのエカテリーナへの愛おしさが溢れ出す。
「……カティ」
かすかに掠れた声で呟くやいなや、ギルバートは彼女の腰を引き寄せ、強く抱き寄せる。
「バート……」
エカテリーナも彼の広い背中にそっと腕を回し、その身を委ねるように目を閉じた。
「……カティ」
「なあに……?」
見上げるエカテリーナの前に、ギルバートは宝石箱の中から、例の月光石の結婚指輪を取り出した。
「……あのとき、カティがこれを置いて家を出ていったのを見たとき、俺は心臓が止まるかと思った」
ギルバートの声には、あの家出の日の焦燥と恐怖がほんのわずかに混じっていた。彼は、エカテリーナの細い指先をそっと包み込む。
「二度と、不安にさせない。だから……もう、俺の前からいなくならないでくれ」
紡がれる言葉は不器用ながらも、逃げ場のないほどの愛と切実さに満ちていた。
ギルバートは指輪をそっと持ち上げると、エカテリーナの左手薬指へと滑らせる。
ぴたりと収まったひんやりとした月光石の感触が、不思議と今は温かい。
「――もう二度と、これを外すな。ずっと、俺のそばにいてくれ」
その真剣な瞳に射抜かれ、エカテリーナは胸がいっぱいになりながら、あふれそうな涙をこらえて力強くうなずいた。
「はい……! もう二度と、絶対に外さないわ」
その瞬間、ギルバートの表情がふっと緩み、彼は愛おしそうに彼女の指輪にそっと口づけを落とした。
すべての呪縛は消え去り、二人の間にはもう、秘密も嘘も存在しない。これからは穏やかな日常の中で、愛しい未来を二人で描いていける。
ただ互いの体温と、永遠を誓い合う確かな鼓動だけが、静かな部屋に重なっていた。




