第50話
二日ぶりにベッドから這い出してきたレイチェルは、ギルバートへ呪いをかけた激しい反動と、絶大な体力の消耗により、肉体は鉛のように重く、立っているのもやっとの有様だった。
異様なほどの屋敷の静けさに眉をひそめながら、彼女はめまいのする頭をかかえ、フラフラと廊下へと足を踏み出した。
「おい……誰かいないのかい! 朝の支度をどうするつもりだよ!」
声を張り上げても、返ってくるのは自分の声の反響だけだ。不審に思って厨房を覗いたレイチェルは、思わず絶句した。
火の消えたかまどの前には誰もおらず、買い出しの食材や調理器具が放り出されたままになっている。庭の手入れをする者も、掃除をする者もいない。
(ふざけんじゃないよ……! 私が目を離した隙に、どいつもこいつもサボりやがって……っ!)
激しい怒りを滾らせながら食堂へ戻ると、ぽつんとテーブルの端に、息子のジュリアスが座っていた。しかも、自分で用意したのか、冷たいパンと水だけの質素な朝食が目の前に置かれている。
「ジュリアス! いったいどういうことだい、使用人たちは全員どこに行ったんだい! お前も、なんでこんなものを……っ!」
レイチェルが怒鳴り声を上げたその時、屋敷の玄関の方から、ただならぬ重々しい足音が響いてきた。
「いったい何なの、朝から!」
レイチェルが苛立ちに任せて振り返った瞬間、食堂の重厚な扉が「バアン!」と勢いよく蹴破られた。
「なっ……!」
踏み込んできたのは、凍てつくような殺気を纏ったギルバートと、武装した数名の精鋭騎士たちだった。
「ひっ……! ギルバート・レイヴン……っ!」
(やっぱり! あの男には、あの限界突破の呪いすら通用しなかったというのか!)
レイチェルは恐怖に顔を引きつらせながらも、喚き散らすように叫んだ。
「なんなの、勝手に他人の屋敷に入ってきて! すぐに出て行きなさい! 私はこのハワード子爵家の当主よ……っ!」
しかし、ギルバートは青ざめるレイチェルを一瞥すらせず、すぐそばで静かに立ち上がるジュリアスへと歩み寄り、冷たい声で命じた。
「おい、部屋を案内しろ」
その言葉を聞いた瞬間、ジュリアスは深く息を吸い込むと、決然とした強い意志を宿した顔でうなずいた。
「……わかった。こっちだ」
息子のその覚悟に満ちた、どこか憑き物が落ちたような表情を見て、レイチェルは絶叫した。
「ジュリアス! 何をやっているの、そんな男の言うことなんて聞かないで!」
だが、覚悟を決めたジュリアスは振り返ることもなく、ギルバートたちを本館の奥へと導いていく。
(……あのとき、遠くの空から、すべてを清めるような圧倒的な光が溢れるのを感じたんだ)
歩きながら、ジュリアスは数日前に起きた奇妙な現象を思い出していた。
母の言われるがままに思考にフィルターがかかっていたはずの自分の頭が、あの強烈な光の気配とともに一気にクリアになり、目が覚めたかのように正気に戻った瞬間。
(あの尋常ではない神聖な光が、母上の邪悪な呪いや、俺にかかっていた呪縛をすべて焼き払ったんだ……!)
さらにその光の余波により、屋敷で働く使用人たちの洗脳もすっきりと解き放たれていた。彼らの多くは、かつてレイチェルに呪いや謀略で家を没落させられ、無理やり身分を奪われて奴隷のようにこき使われていた者たちだったのだ。
正気を取り戻した彼らは、これまでの仕打ちに対する激しい怒りに震え、夜の間に我先にとハワード邸から逃げ出していったのである。
そして今――。
ジュリアスが一同を連れて向かったのは、豪華な本館の奥から庭へと伸びる、古びた渡り廊下の先だった。
その先、庭の片隅にひっそりと佇んでいるのは、かつてジュリアスが母とともに這いつくばって暮らしていた、あばら家の名残――あの「農機具小屋」だった。
だが今では、レイチェルが誰にも知られぬまま禁忌の儀式を繰り返してきた、忌まわしい場所へと変わり果てていた。
その頑丈な木の扉の前に立ち、ジュリアスは母が使っていた隠された仕掛けに手をかけた。
「ここです……母上がいつも鍵をかけ、誰をも寄せ付けなかった場所だ」
ジュリアスが仕掛けを操作すると、扉の表面に禍々しい魔法陣が浮かび上がった。
それは単なる鍵ではない。農機具小屋への侵入を拒み、その存在を周囲から悟られにくくするために施された、強力な封印だった。
「……なるほど。これか」
ギルバートは魔法陣へ目を細める。
封印は幾重にも重ねられており、通常の魔法では到底解除できそうにない。
「ハワード。よくここまで案内してくれたな。これほど巧妙に隠されていれば、外から探しただけでは見つけるのは難しい」
「……ありがとうございます。でも、俺一人では、この封印を解くことはできませんから」
ジュリアスがそう答えると、ギルバートは静かに聖なる力を剣へと纏わせた。
「ならば、ここからは俺の仕事だ」
ギルバートが剣を封印へ向ける。
次の瞬間――。
――バキィィンッ!!
聖なる力が封印へ叩き込まれ、扉を覆っていた幾重もの魔法陣が一枚、また一枚と砕け散っていく。
最後の封印が弾け飛ぶ。
そして――。
頑丈な木の扉が、重々しい音を立てて開いた。
奥から溢れ出したのは、見る者の正気を疑うような禍々しい呪いの瘴気だった。
「……っ!」
ギルバートたちが息を呑む。
農機具小屋の内部。
その床一面には、おぞましい魔力で描かれた巨大な魔法陣が浮かび上がっていた。
「ひっ……あ……」
レイチェルは、自分だけが知る秘密の聖域を暴かれた恐怖と、ギルバートを殺すことができなかった絶望に、その場でガタガタと全身を震わせた。
すべてが露見した恐怖に呑まれた、その刹那――。
レイチェルの身に仕掛けられていた「契約の呪い」が、容赦なく発動した。
「がはっ……っ!」
喉を押さえ、レイチェルは白目を剥いてその場でガクガクと痙攣する。
そのまま床へと崩れ落ちた。
命が絶えるのは、ほんの一瞬のことだった。
「……っ!?」
農機具小屋へ踏み込もうとしていたギルバートは、目の前で起こった急展開に眉をひそめた。
黒幕の男へとつながる糸口を引き出すため、レイチェルを生きたまま捕らえ、自白させるつもりだった。
だが――。
彼女自身にかけられていた口封じの呪いか何かが、秘密が暴かれた瞬間に強制発動し、その命を奪ったのだ。
主を失った魔法陣は、まるで最初から存在しなかったかのように、スーッと霧散していく。
足元に倒れ込み、二度と動かない母親の亡骸を見下ろしながら、ジュリアスは信じられないものを見るように目を見開いた。
「母上が……あんな恐ろしいことを、裏でずっと……していたっていうのか……?」
母の歪んだ愛と、自分が操られていたという紛れもない現実が突きつけられ、ジュリアスはその場に膝をつき、頭を抱えて激しく震え続けるのだった。
冷たく静まり返った農機具小屋の中で、ギルバートは消えゆく魔法陣の残り香を鋭い眼光で見つめる。
(――レイチェルが死んだ。だが、彼女にこの禁忌の術を教えた『黒幕の男』が、まだ野放しだ)
すべての元凶の尻尾を掴むため、ギルバートは冷徹な闘志を宿し、次の標的へとその視線を向けた。




