第44話
すっかり秋も深まり、夜には冷たい風が吹き抜けている。
レイチェルは薄暗い部屋で、手元のグラスを強く握りしめていた。
頭の片隅にこびりついて離れない、あの日の記憶が疼く。
――あれはまだ、這いつくばるように商店街で果物を売っていた頃のことだ。
息子ジュリアスを連れて、店先で細々と果物を売り、日銭を稼ぐのに必死だった日々。薄汚れた服を着て、見下した笑いを浮かべる客たちに頭を下げるだけの底辺の生活。
そんなある日、ひときわ眩しい気品をまとったヴェルツ子爵夫人のマリアが、幼いエカテリーナを連れてやってきた。
マリアはレイチェルが売る果物を見ると、ふんわりと優しい微笑みを浮かべ、そばにいた幼いジュリアスに目を細めた。そして、驚くほど相場よりもずっと多めのお金を、レイチェルの手にそっと握らせたのだ。
「うちの子と、同じくらいのお子さんでしょう? 大変でしょうから、これ、使ってくださいな」
曇りのない、どこまでも温かい瞳だった。
マリアは心からの善意と、同じ母親としての共感から、慈しむようにレイチェルの手を包み込んでそう言った。
傍らでは、幼いエカテリーナも無邪気に微笑みながら、店頭のイチゴや桃を見て「これ、すごく美味しそう!」と声を弾ませ、さらに買い求めた果物の中から「これ、お裾分け!」と小さなジュリアスに一つ手渡していた。
だが、当時のレイチェルにとって、それは耐え難いほどの劇薬だった。
(……ふざけんじゃないよ……っ!)
悪意で罵られたのなら、こちらも憎しみで跳ね返すことができた。だが、相手は本気で自分を哀れみ、純粋な善意で「施し」をくれたのだ。
その温かさが、綺麗さが、あまりにも眩しすぎて――。「お前は底辺の、哀れな人間だ」と、頭を撫でられているような強烈な劣等感をレイチェルの胸に焼き付けた。
私たちはあんなふうに気高く、優しい顔をして生きられる人間とは違うというのか。
あんな上等な奥様に、同情され、慈悲をかけられなければ生きていけない自分たちが、どうしようもなく惨めだった。
怒りと、どうしようもない嫉妬。
ヴェルツ子爵家が、いかに領民思いで慈悲深いか、噂を聞くたびに、レイチェルの胸の奥にはドス黒い憎悪がこびりついていった。
マリアとエカテリーナのことをずっと、レイチェルは恨み続けていた。
それから数年後、彼女の住むあばら家の隣にある農機具小屋に、深くローブを被った正体不明の魔呪師が現れた。
魔呪師は、レイチェルの中にある腐り切った嫉妬と恨みを見透かすように、低く冷たい声で囁いた。
『――お前の胸を焼くそのドス黒い憎悪。あの眩しい母娘を引きずり下ろし、すべてを奪い去りたいとは思わないか?』
『……お前ほど強い怨念を抱ける人間は、そうはいない。呪いとは、術者の憎悪が強ければ強いほど、その力を増すものだ。お前ならば――十分な資格がある』
当時のレイチェルは鼻で笑ったものだ。
「冗談じゃないよ。私みたいな特別な魔力もない、ただの一般人の女が、そんなおっかない呪いなんて使えるわけないだろうに」
だが、魔呪師は不敵な笑みを浮かべ、静かに、しかし冷酷に告げた。
『私の言う通りに呪いの儀式を行えばいい。あの忌々しいヴェルツ子爵家……特に、あの生意気な娘・エカテリーナの命と心を、お前の思い通りに狂わせることは容易いはずだ。彼女のすべてを奪い、絶望させてやりたいとは思わないか?』
危険すぎる誘いに、背筋が凍る。しかし、レイチェル自身の心にあったエカテリーナへの強烈な嫉妬と憎悪が、その甘い毒に引き寄せられてしまった。
魔呪師は隣の農機具小屋の扉に手をかざすと、蜘蛛の巣のような禍々しい魔力でそれを覆い、外の世界から完全に封印した。
『――ふふ。この中に足を踏み入れられるのは、この契約を結んだお前だけだ。他の者は決して中に入ることはできない。誰にも邪魔されず、存分に呪いに浸るがいい』
奇妙な熱を帯びた瞳でその封印された小屋を見つめるレイチェルを残し、魔呪師は冷たく言い残して、音もなく闇へと溶けていったのだった。
魔呪師はエカテリーナを標的にするよう告げたが、レイチェルの中では、あの眩しい笑みを浮かべて自分に慈悲をかけた母・マリアへの憎悪のほうが圧倒的に根深かった。
(ずっとずっと、生意気だと思ってたんだ! あの女……!)
夜な夜なその農機具小屋にこもり、儀式を進めるレイチェル。その最中、全身の力が抜けていくような強烈な倦怠感が襲う。
(はあ、はあ……っ! なんだよ、この呪いってやつは、ものすごい体力を使うじゃないか……っ!)
初めての儀式だったせいもあり、呪いの強度がわずかに足りず、その場でマリアを呪い殺すまでには至らなかった。しかし、強烈な呪毒が体を蝕み、そこからマリアは原因不明の病に臥せることになった。
「ざまあないね。すぐに殺すなんてもったいないさ。このままずっと、長いこと病の苦しみを味わえばいいんだよ……」
次に行ったのは、夫であるルイスの商売を軌道に乗せるための呪いだった。すると、奇跡が起きたかのように夫の商売は当たり始め、湯水のように金が湧き出るようになった。
味を占めたレイチェルは、そこで止まらなかった。さらなる権力と富、そして「貴族の地位」が欲しかった彼女は、とある男爵を呪いによって精神的に追い詰めて没落させ、その地位を金でまるっと買い取ってみせたのだ。
こうして念願の「男爵夫人」となったレイチェルは、息子であるジュリアスを王立高等部のきらびやかな学校に通わせた。
自分が貴族になったことなど、最初は夢のようだった。だが、人間の欲望とは恐ろしいもので、一度手に入れた特権に慣れてしまうと、周囲の人間すべてが自分を下に見ているのではないかという疑心暗鬼へと変わっていく。
レイチェルは、自分を蔑む者や、気にくわない相手を次々と呪い、思い通りに操ることでその恐怖と承認欲求を満たしていった。
王立高等部を卒業し、すでにジュリアスは二十一歳になっていた。
時を同じくして、ギルバート・レイヴンが十八歳で聖騎士に就任。
それを契機に世界中で魔物が大量発生し、聖騎士たちが討伐に明け暮れる中、相変わらずジュリアスは特に何をすることもなく、ただプラプラと怠惰な日々を送っていた。
そんなある日、レイチェルは派手な夜会に夫と参加した際、同じく王立高等部を卒業したエカテリーナが、その頭脳を活かしてヴェルツ子爵家の仕事を担ったり、貴族の家庭教師をして働いているという噂を耳にした。
ヴェルツ子爵家は、今は討伐隊が世界で頑張っているのだからと夜会などは自粛し、質素に過ごしているらしい。それを世間は「さすがだ」「堅実だ」「真面目だ」「領民思いだ」と褒め称えていた。
(生意気な……。すっかりその存在を忘れていたよ)
早速、レイチェルは封印された農機具小屋の呪いの部屋にこもり、再び儀式を始めた。
「まずは、あの母親――マリア! もうあいつも潮時だろ。今度こそ、終わらせてやるよ」
ついに、長年病に苦しんでいたマリアは、重ねられた呪いに屈して命を落としたのだ。
その後――エカテリーナの父親であるヴェルツ子爵は、すぐに新しい妻を娶り、派手な継母と義理の妹たちが家にやってきた。
だが、それもすべてレイチェルの呪いによるものだった。父親がなぜ、あんな派手な女を突然招き入れたのか。さらに、なぜ突然エカテリーナに対してひどく冷たく当たるようになったのか。すべては裏でレイチェルが仕組んだ精神誘導の呪いだった。
(エカテリーナ、母親をなくして、おまけにあんなに下品な奴らにこき使われて、さぞ悲しいでしょうね。でも、本当の地獄はこれからよ……)
そして、継母たちの散財により金に困ったヴェルツ子爵家がエカテリーナとジュリアスの結婚を認め、レイチェルたちも多額の援助を申し出た。
(ざまあないね。格下の相手からの施しは、どんな気分だい?)
ヴェルツ子爵と親戚になったおかげで、ルイス・ハワードも子爵に格上げされた。
だが、ルイスは時折「お前は、なんでエカテリーナに対してあんなに冷たいんだ? 可哀想だろう」などと口を挟んできた。
「お前までエカテリーナの肩を持つのか! お前のせいで、さんざん貧しく惨めな思いをしてたんだろ! だいたい、誰のおかげで今の地位があると思ってるんだよ! ……ルイス、もう、お前は用無しだ!」
邪魔になった夫――ハワード子爵をも、レイチェルは呪いによってあっさりと抹殺した。
エカテリーナを家でこき使ったのも、積年の恨みからだった。
ジュリアスがエカテリーナを好いていることは、とうに気づいていた。どうせ学生の時からずっと片想いしていたのだろう。
気に入らないね。ジュリアスまで「カティ、カティ」ってさ。どいつもこいつも。
だいたい、エカテリーナが私の可愛いジュリアスから愛されるなんて冗談じゃないよ。ジュリアスは渡さないよ!
レイチェルは息子の心を完全に支配するため、ジュリアスに「エカテリーナを遠ざけよ」という精神誘導の呪いを深く刻み込んだ。
その結果、ジュリアスは彼女と結婚したというのに、脳を焼かれるような強烈な嫌悪感と拒絶反応に襲われ、指一本触れることすらできなかった。
(どうだい、夫にすら気味悪がられて、指一本触れてもらえない妻なんてさぞかし惨めだろうよ! さあ、絶望して泣き喚きなさいよ!)
しかし、いくら冷遇したところで、エカテリーナは毅然とした態度で淡々と命ぜられたことをこなしている。その涼しい顔に頭にきたレイチェルは、さらに苛立ちを募らせた。
(気取りやがって……! もういい、お前も消してやるよ)
堪忍袋の緒が切れたレイチェルは、農機具小屋の呪いの部屋でエカテリーナを直接呪い殺すための強烈な呪いを発動した。
しかし――なぜか、エカテリーナは死なない。
自分がエカテリーナに対してこれほどの猛烈な憎悪を向け、直接対峙するたびに、発作のような激しい苦しみこそ起こすが、それだけでしばらくすると何事もなかったように落ち着いてしまう。
「なんでだよ……! どうしてあんな小娘が死なないんだ……っ!」
しぶといやつだ、と歯噛みしたものの、家庭内で散々いたぶり尽くし、最後には「離婚したい」と自ら言い出させた。
まあいいさ、実家に帰っても継母たちがいるし、行くあてもないだろう。食うに困って、娼館にでも雇われて惨めな最後を迎えればいいさ。
そんな風に思っていたのだが――
あの憎きエカテリーナが、よりによってあの「レイヴン侯爵」と結婚するだと……!?
(絶対に許さない……! 私が這い上がり、築き上げたこの世界を、あの小娘が生意気にも踏みにじるというのか……!)




