第43話
エカテリーナが森の小屋へ移り、自分の足で生きる楽しさを見出し始めてから――数日が経過していた。
結婚して以来、これほど長く彼女と離れ、同じ屋根の下にいない日々は初めてのことだった。
遠くから彼女の平穏な日々を密かに見守り続けるギルバートの胸中には、複雑な想いが渦巻いていたが、彼女が少しずつ笑顔を取り戻していることだけが今の救いだった。
そんなある日の深夜の執務室。
書類に向かっていたギルバートの耳に、パタパタという微かな羽音が聞こえたかと思うと、窓の隙間から小さな光の玉がいくつも飛び込んできた。
「お野菜! お野菜ちょうだいー!」
「新鮮なお野菜の時間だよー!」
ポコをはじめとする妖精たちが、ギルバートの周囲をくるくると飛び回りながら無邪気に騒ぎ立てる。ギルバートはあらかじめ用意しておいた、瑞々しい野菜や果物が盛られたカゴを机の端にそっと置いた。
「ほら、食え。……それで、カティはどうだ? 元気にしているか?」
野菜にかじりつく妖精たちを細めた目で見つめながら、ギルバートは静かに問いかけた。
「あのね、小屋に戻った日の夜は、悲しいって、泣いちゃってたけど……!」
ギルバートは一瞬、ハッとして息を呑む。
(初日の夜は、泣いていたのか……ッ)
胸の奥がチリと痛んだが、ポコたちはすぐに明るい声で続けた。
「でもね、その後はすっごい元気にしてるよー! お野菜もいーっぱい食べてる!」
ポコたちの無邪気な報告に、ギルバートはわずかに強張っていた表情を緩め、ふうと長い息を吐き出した。
彼女が一人で寂しさに耐えている姿を想像すると今すぐにでも迎えに行きたくなったが、それでも彼女が食事をとり、前を向こうとしていること自体が今の救いだった。
(そうか……少しずつ、自分の足で歩き始めているんだな……)
最愛の妻が懸命に生きようとしていると知り、ギルバートはわずかに胸を撫で下ろした。
そして、改めて妖精たちに鋭い視線を向けた。
「……お前たちがちゃんと守るんだぞ。何かあったらすぐに俺に知らせろ」
「はーい!」
妖精たちは元気よく返事をすると、さらに野菜を頬張ってぱたぱたと羽ばたいた。
――しばらくして、ポコがふと何かを思い出したように、気まずそうにモジモジと身をよじった。
「あのね……ごめんなさい、侯爵様……そういえば……僕たち、うっかりカティに言っちゃってたのー」
「……何をだ?」
「侯爵様が、ずーっとずーっと十歳の頃からカティのことを見てたってこと!」
その言葉に、ギルバートはピタリと動きを止めた。
「……あれほど、新鮮な野菜を山ほどやる代わりに、絶対に秘密にするよう口止めしただろ……っ!」
背筋に冷たい汗が伝う。
(……まさか、俺が影からこっそり見守っていたと知ったから……それが気味悪くて、彼女は俺のもとから逃げるようにあの小屋へ逃げていったのか……!?)
「で、でもね、カティ、それを聞いて泣いてたよねー」
他の妖精が無邪気に付け加えた言葉に、天下の侯爵であるギルバートの顔からさあっと血の気が引いた。魔物と対峙した時でさえ見せたことのないほどの狼狽えぶりで、彼は思わず身を乗り出す。
「なっ……! も、もしかして、俺の執着を気持ち悪がって泣いていたのか……!?」
愛する妻に完全に怯えられ、嫌悪されたのだとしたら、ギルバートにとってそれは死以上の絶望だった。頭を抱えそうになる彼を見て、妖精たちはキョトンと首を傾げた後、ケラケラと笑い声を上げた。
「ううん、違うよー!」
「うれしかったんだよー! カティの心から、うれしいって気持ちがいーっぱいあふれてたよー!」
「僕たち、妖精だからカティの本当の気持ち、ちゃーんとわかるもん!」
――うれしかった。
その言葉が頭の中で響いた瞬間、ギルバートの呼吸が止まった。
カティは、俺の感情を知って、気持ち悪がるどころか『喜んで』泣いていた……?
バラバラだった思考の欠片が、一瞬にしてひとつの線に繋がっていく。
俺が彼女を深く愛していることを、カティはすでに知っていたのだ。それなのに、彼女はあえて冷酷な妻を演じ、俺の元を去った。
なぜか。
答えはひとつしかない。彼女は自分の命が長くないことを悟り、俺が将来悲しまないように、わざと嫌われるように仕向けて身を引いたのだ。
自分の心がどれほど傷ついても、俺の未来を守るために。
(……あなたという女は、どこまで馬鹿で、どこまで愛おしいんだ)
胸の奥から、熱く締め付けられるような感情が込み上げてくる。
自分は彼女の孤独を分かった気になっていたが、カティはずっと一人で恐怖を抱えながら戦っていたのだ。
「……やっぱり、そうだったのか」
ギルバートは深く息を吐き出し、目頭を押さえた。
彼女はただ守られるだけの弱い存在などではない。自分を犠牲にしてでも大切なものを守り抜こうとする、気高くて強い魂を持った女性なのだ。
――あの日、幼い自分をかばって野獣の前に飛び込んできた時から、ずっと。
そんなこと、とうの昔から知っていたではないか。
(俺の負けだ、カティ。……だが、絶対にあなたの自己犠牲なんかに付き合ってやるものか)
彼女の真意と、不器用すぎる深い愛を知ったギルバートの瞳に、もう迷いはなかった。
何が何でも彼女の病の謎を解き明かし、必ず生かして、二度と離さない。そして今度こそ、真正面から彼女を抱きしめるのだと、ギルバートは固く誓うのだった。




