第42話
ギルバートの屋敷で暮らしていた頃も、エカテリーナの体調はすこぶる良かったが、それはこの森の小屋に移ってからも変わらなかった。
胸を締め付けるようなあの恐ろしい発作は、ぴたりと止まっている。
(バートと一緒にいたときも……そういえば、一度も発作なんて起きなかったっけ……)
ふと、彼の温もりや優しい眼差しが脳裏によみがえり、胸がキュッと切なく痛む。けれど、すぐに首を横に振って雑念を払い、生き生きとした表情で顔を上げる。
今こうして自分の力で生きているという実感が、彼女の心を少しずつ強くしていた。
小屋の周りの小さな畑を耕し、トマトやハーブの種をまく。土に触れ、汗を流しながら作物を育てるのは、貴族として育った彼女にとって初めての経験だったが、それが何とも心地よかった。
「うーん、お水をもっとあげたら、きっと元気に育つね!」
「うんうん! カティの手は魔法みたいに温かいから、すぐ大きくなるよお!」
ポコをはじめとする妖精たちが頭の周りを飛び回り、賑やかに囃し立てる。そんな平和で穏やかな時間に、エカテリーナは心の底から微笑みをこぼし、自分の足で生きる楽しさを噛みしめていた。
***
その頃、王都。
ギルバートは馬を走らせ、エカテリーナの弟であるアランが通う王立高等学院を訪れていた。
放課後の静かな中庭のベンチで、ギルバートは真剣な眼差しをアランに向ける。
「アラン。……唐突ですまないが、君のお姉さん――カティのことで話がある」
「えっ、侯爵閣下……? 姉のことで何か……?」
突然の侯爵の来訪に、アランは緊張の色を浮かべる。ギルバートは静かに息をつくと、どこか言いづらそうな表情を浮かべながら告げた。
「今、カティは一人になりたいと申し出て、例の森の小屋に身を寄せている。……誤解しないでほしい、俺たちは喧嘩をしたわけではない。だが、カティの体調や身の安全を守るため、俺の独断で腕利きの護衛をつけている。……ただ、カティには俺が護衛をつけていることは内密にしてやってほしいんだ」
アランはしばらく驚いたように目を丸くしていたが、やがてまっすぐな瞳でギルバートを見つめ、深々と頭を下げた。
「……事情はよく分かりませんが、閣下が姉をどれほど大切に思われているかは知っています。それに、閣下ほど誠実な方が言うのですから、きっと何か深い事情があるのですよね。信じています」
「……すまない、アラン」
***
それから数日後の休日。
王立高等学院の休暇を利用して、アランは森の小屋へとやってきた。トントン、と控えめなノックの音が響き、扉を開けたエカテリーナは、目を丸くした。
「アラン……!? どうしてここに……」
「カティ姉さん……っ! 一体どういうことだよ!?なんでこんなところで一人で暮らしてるんだよ!」
驚きと心配が入り混じった顔で詰め寄る弟に、エカテリーナは困ったような、しかしどこか吹っ切れたような柔らかい笑みを浮かべた。
「ううん、ちょっとね……。私がいると、ギルバート様に迷惑をかけちゃうから。私から、この結婚は辞退したの」
「そんなの納得いかないよ!」
「私の我儘なの。それよりもアラン、私、そろそろ自分でちゃんと自立したいの。どこかで働こうと思うんだけど……何かいいお仕事、知らないかな?」
アランは姉の真剣な眼差しにたじろぎつつも、少し考えてから恐る恐る提案した。
「……働く、のか? うーん、それなら……僕の知り合いの、少しお堅いけれど誠実な貴族の家で、家庭教師を探していた気がするけど……」
「本当? 私、頑張るわ!」
二人がそんな風に未来について前向きに話し合っている様子を、ギルバートが配置した護衛たちが息を潜めて見守り、その報告はすぐにギルバートの耳にすべて届けられていた。
(……俺から離れて、自分の足で生きようとしているのか……)
部下からの報告を聞きながら、ギルバートの胸中は複雑な感情で波立っていた。
彼女が元気を取り戻していることへの安堵と、自分なしでも生きていこうとする姿への言い知れない寂しさ、そして、愛おしさがぐしゃぐしゃに混ざり合う。何とも言えない切なさと独占欲に悶えながら、ギルバートは握りしめた拳をそっと緩めるのだった。




