第41話
静まり返った森の小屋。
固く冷えた木のベッドに横たわり、エカテリーナは窓の外にぽっかりと浮かぶ月をぼんやりと見つめていた。
(バート……)
彼の温もり、優しい眼差し、そして不器用な嘘。すべての愛おしい記憶が脳裏によみがえり、胸が締め付けられる。
自分の選択が正しかったのだと頭ではわかっていても、あふれ出した涙は止まらなかった。瞳から伝った雫が、枕を濡らしていく。
どこからともなく、微かな羽音が聞こえる。
気がつけば、ポコをはじめとする小さな妖精たちが、エカテリーナの周りに何匹も寄り添っていた。
「カティ、泣かないでえ……」
「えーん、カティが泣くと、ボクたちも悲しくなっちゃうよお」
心配そうに顔を覗き込み、小さな手で涙を拭おうとしてくれる妖精たちの姿を見て、エカテリーナははっと息を呑んだ。
そして、切なさを押し殺すように柔らかく微笑み、ぽんぽんとポコを優しく抱きしめる。
「……ごめんね、みんな。もう泣かないわ。見ていて、もう平気よ」
妖精たちの温もりに包まれ、エカテリーナは静かに目を閉じるのだった。
***
その頃、いつものバーの一角。
ギルバートはグラスを傾けながら、目の前に座る男――ジュリアスを冷徹な眼光で見据えていた。
エカテリーナの命を救うため、二人はこうして密かに酒を酌み交わし、情報共有を重ねるという奇妙な関係を築いている。
「おい、ハワード」
「……侯爵閣下。毎度こうして呼び出される身にもなっていただきたいものですが……」
冷や汗を拭いながらも、ジュリアスはどこか怯えたような、しかし逆らえないといった様子でグラスを置く。かつてエカテリーナを冷遇し、手放した男を目の前にして、ギルバートの胸中にあるのは怒りよりも、今や妻の病と発作の謎を解くことへの執念だった。
「あの発作が起きるとき、そばにいつも誰がいたか?」
「……そういえば、母上が近くにいるとき、カティは決まって……」
ジュリアスが怯えたように眉をひそめ、言葉を紡ぐ。
「母上は悪くない! いや……俺は……母上にはなんだか逆らえないんだよ。いつだって、母上の言うとおりにしないといけないって、頭から離れなくて……」
ジュリアスのその怯えたような、母親に対する異常なまでの従属心を聞きながら、ギルバートは鋭く目を細める。
エカテリーナを苦しめ続ける元凶にたどり着くため、ギルバートは静かに、しかし容赦のない尋問を続けるのだった。
***
深夜の静まり返った執務室。
ギルバートの机の上に、リチャードが分厚い調査資料の束を音もなく置いた。
「旦那様。……レイチェル・ハワードのこれまでの経歴と、彼女が成り上がるまでの経緯をすべて洗い出してまいりました」
ギルバートは無言のまま資料を引き寄せ、鋭い眼光でページをめくっていく。
もちろん、エカテリーナがかつてジュリアスと結婚した当時、ハワード家全体の表向きの素性や家格については一通り調べてあった。だが、あの女――レイチェル個人の過去については、これまで深く追うことはなかった。
資料に記されていたのは、おぞましいまでの成り上がりと、泥臭い執念の歴史だった。
レイチェルの夫、すなわちジュリアスの父親である男の名前は――ルイス・ハワード。
彼はこれといった仕事もせず、定職に就いてもすぐに辞めてしまうような男だった。だが、整った外見だけは良かったため、若い頃からやたらと女性にはモテたという。レイチェルもまた、その容姿に一目惚れする形で彼と結婚したのだった。
だが、貧しい平民同士の生活に待っていたのは過酷な現実であり、結婚してからも夫は全く働かず、彼女が細々と果物を売ることで、どうにか日々の生計を立てていた。
そんな貧しい生活が、ある日を境に一変する。
ルイスが思いつきで始めた商売が、突如として奇跡的な当たりを見せたのだ。
理由も不明のまま、なぜか商売は次々と大当たりし、底知れぬ大金が転がり込んでくるようになった。潤沢な資金を手に入れたレイチェルは、没落しかけていた貧乏貴族から「男爵位」を丸ごと金で買い取った。
『所詮、世の中は金だろ』
成り上がりの彼女は、伝統や血筋を重んじる古くからの貴族たちから、下品極まりないと露骨に蔑まれた。
だが、レイチェルは鼻で笑い飛ばした。金に困窮して首が回らなくなっている貴族を見つけては、札束をチラつかせて多額の援助をし、無理やり恩を売って自分の駒にしていく。そうやって、泥水をすすりながら強引にハワード家の勢力を拡大させていったのだ。
そして――その時期は、奇しくもギルバート自身の記憶とも重なっていた。
ギルバートが若くして聖騎士となり、世界の脅威である魔物を討伐するため、王都を離れて苛烈な遠征の旅に出ていた頃のことだ。
資料のページをめくる手が、かすかに震える。
(俺が聖騎士として遠征に縛り付けられていたあの時期に……カティの周囲で、そんな悪夢がうごめいていたのか……)
当時、長く病に伏せっていたエカテリーナの実母が亡くなり、間もなくして無能な継母と強欲な義妹たちが家に押しかけてきた。
彼女らの派手で荒い金遣いにより、もともと余裕のなかった実家はあっという間に経営難に陥り、窮地に立たされた。
そこに目をつけたのが、勢力を伸ばしたいハワード家だった。
当時、ハワード家が狙っていたのは、由緒あるエカテリーナの実家の「優れた血筋」であり、それを利用して男爵家から子爵家へと格上げを果たすことだった。
しかも、息子であるジュリアス自身が密かにエカテリーナに恋い焦がれているのを知っていたレイチェルは、その恋心もうまく利用した。
困窮するエカテリーナの家族の借金を肩代わりし、さらに金を援助することを条件に、ジュリアスに彼女へ求婚させる――。そうして、息子の望みを叶えるふりをしながら、レイチェルはちゃっかり目的の爵位を手に入れたのだ。
――あの女が……。
エカテリーナの人生を狂わせた、すべての元凶なのか――。
ギルバートの双眸が、底知れぬ殺意と怒りで真っ黒に染まっていくのだった。




