第40話
ギルバートの職場を飛び出したエカテリーナは、そのまま馬車を飛ばして屋敷へと戻った。
自室に戻ると最小限の荷物だけをまとめ、すぐに旅立ちの支度を整える。
その際、ドレッサーの引き出しを開け、そこに収められていた重厚な宝石箱へと視線を落とした。そこにはかつて、ギルバートから「レイヴン家の妻のものだ」と手渡されたネックレスやイヤリングが収められている。
(……ごめんなさい、バート。私なんかが、こんな素敵なものを持っていちゃいけないのよ……)
あふれそうになる涙をぐっとこらえ、エカテリーナは、これまで肌身離さず大切につけていた左手薬指の月光石の結婚指輪をそっと外し、その宝石箱の奥へと丁寧にしまい込んだ。
「奥様、いったいどうなさったのですか……! 旦那様と何かあったのですか?」
慌てた様子で部屋に飛び込んできたシビルが、トランクを抱えるエカテリーナを見て青ざめる。さらに、物音に気づいた他のメイドたちも次々と集まってきた。
「奥様、勝手に出て行かれるなど……! 旦那様が戻られたら、どれほど心配なさるか……!」
「お願いです、もう少し考え直してください!」
シビルが涙を流し、メイドたちも必死に引き止めようとするが、エカテリーナは静かに、けれど強い意志を宿した目で首を横に振った。
「今までありがとう、シビル。そして、みんな……私なんかのお世話をしてくれて、本当に感謝しているわ。……ごめんなさい、私もうこの家にはいられないの」
「奥様っ……!」
シビルの引き止める声を背に受けながら、エカテリーナは冷たい仮面を保ったまま屋敷をあとにした。誰も引き止めることができないまま、彼女は一人、馬車に乗り込んで思い出の森の小屋へと向かっていくのだった。
***
その頃、ギルバートは、青ざめた顔で駆け込んできたリチャードから報告を受けて凍りついていた。
「奥様が荷物をまとめて、一人で屋敷を出て行かれました……!」
部下たちが必死に引き止めようとしたが、エカテリーナの意思は固く、そのまま馬車で去っていったという。
激しい焦燥に駆られ、すぐにでも追いかけようとしたが、ギルバートはぐっと踏みとどまった。
(いや……ここで無理に屋敷へ連れ戻しても、彼女の心をさらに追い詰めるだけだ)
彼女が向かう先など、最初から分かっていた。あの森のなかにある、かつて出会った小屋に違いなかった。
彼女の体調やこれまでの経緯を考えれば、今は無理に追いかけるべきではない。しかし、一人で放っておくわけにもいかない。
ギルバートはすぐに信頼できる者たちを呼び集めた。
「ガワンたちを含め、優秀な護衛をあの小屋の周囲に配置しろ。彼女には決して気づかれないように、密かに周辺を警護させるんだ。万が一のことがあれば、すぐに俺に知らせろ」
「はっ!」
指示を飛ばしたあと、ギルバートはリチャードに、街での出来事について詳細を問いただした。
「リチャード。一体何があった?」
主人の真剣な問いかけに、リチャードは表情を引き締めて答えた。
「……実は、街の通りでジュリアスの母親であるレイチェル夫人と遭遇いたしました。その際に、夫人から心無い侮辱の言葉を浴びせられ、奥様は激しい発作を起こされたのです」
「……レイチェルがっ!」
ギルバートの双眸に、殺気じみた怒りの色が走る。
同時に、記憶の歯車が噛み合った。
そういえば、以前パーティーの最中にエカテリーナが発作を起こしたときも……あのとき、ジュリアスがエカテリーナのそばにいた。
もし、その場にレイチェルもいたのだとしたら――。
あのときの発作も、レイチェルの言動が引き金になっていた可能性がある。
トラウマの元凶が元義母であるレイチェルなのだとしたら、彼女がエカテリーナの心をどれほど蝕んできたか計り知れない。
「リチャード。レイチェルについて、これまでの経歴から現在の動向まで、すべて洗い出せ。あの女がカティに何をしてきたのか、徹底的に調べるんだ」
「はっ! すぐに手配いたします」
執務室から退室したリチャードを見送ったあと、ギルバートは暗くなった窓の外――エカテリーナがいるであろう森の方角をじっと見つめた。
(カティ……)
ふと、あの森に住む小さな妖精たちの姿が脳裏をよぎる。
(ポコたち妖精なら、きっとまた野菜や果物を求めて俺のところにやってくるはずだ。そのときに、あいつらの口からカティの様子を聞き出せばいい……)
今はただ、彼女の心が少しでも休まることを祈りながら、ギルバートは静かに次の手を打つのだった。
(――待っていろ、カティ。お前を怯えさせたすべての元凶を断ち切り、今度こそ俺の手で、お前を永遠に幸福の檻に閉じ込めてみせる……!)
闇夜に光る冷徹な瞳の奥に、愛しい妻を脅かすものすべてを容赦なく排除するという、狂おしいまでの執着と闘志が宿るのだった。




