第38話
王都からの帰路。
馬車の中で、エカテリーナは静かに息を整えていた。
(……あれ? 不思議……)
あんなにも激しい発作に襲われ、息もできなくなって、絶望の淵に突き落とされたというのに、馬車に揺られている今の彼女は、嘘のように身体が軽かった。呼吸は穏やかで、胸の痛みも綺麗に消え去っている。
――もう発作は完全に落ち着き、まるで先ほどまでの苦しみが嘘のようだった。
「あんなに苦しかったのに、いったい何だったのかしら……」と首をかしげてしまうほど、すっきりと楽になっていた。
向かいの席に座っていたリチャードは、エカテリーナの顔色をそっと窺いながら、慎重に言葉を選ぶ。
「奥様、先ほどは大変でございました。……差し支えなければお聞きしますが、お身体が優れなくなるのは、どういった時が多いのでしょうか?」
「あ、ありがとう、リチャード。……ううん、大したことないのよ、自分でもよくわからないけれど。ただ……おそらく、あの人たちのような、前の家族の記憶やプレッシャーがストレスになっているんだと思うわ」
「……左様でございますか」
リチャードは相槌を打ちつつ、内心で(元の夫の家族から受けたトラウマのせいで、あんな発作が……?)と眉をひそめた。そして、ギルバートから託された言葉を思い出し、真摯な眼差しでエカテリーナを見つめる。
「奥様。……旦那様は、奥様が倒れたと知ったら、それはもう血の気が引くほどご心配なさるでしょう。旦那様にとって、奥様はかけがえのない、たった一人の大切な方なのです」
その言葉を聞いた瞬間、エカテリーナの胸が熱く締め付けられた。
「……ありがとうございます、リチャード」
そう微笑みながら、エカテリーナの心臓はキュッと痛む。
(こんなにも深く、大切に愛されているというのに……どうして、私はこんな病持ちの身体なの……っ!)
自分が健康であれば、何の躊躇いもなく彼の腕の中に飛び込み、心から愛を返せるのに。限られた時間しか残されていないこの身体のせいで、彼を苦しめているという現実が残酷でならなかった。
少しでも気を紛らわせようとしたのか、エカテリーナはふと、気になっていたことを口にする。
「ねえ、リチャード。……以前、ギルバート様が『婚約者がいるのに付きまとってくる、面倒なご令嬢がいて、自分が結婚すれば彼女は婚約者と海外に行くから……』っておっしゃっていたのだけど、そのご令嬢について、詳しく聞かせてもらえるかしら?」
エカテリーナの問いかけに、リチャードはぴくりと眉を寄せ、わずかに言葉を詰まらせた。ギルバートのスケジュールや身辺の管理をすべて把握している側近の自分に、そんな令嬢の存在など一切耳に入っていない。
「……婚約者がいるのに付きまとってくるご令嬢、ですか?」
リチャードは真面目な顔で首を横に振った。
「いえ、そのようなご令嬢はおりません。側近である私が知らないはずがありませんし、そもそも貴族社会において、そんな不貞な真似をする者がいれば大スキャンダルになります。そんな噂すら耳にしたことはありません」
確信を持った口調で否定してから、リチャードはどこか呆れたような、それでいて主人の不器用さを思いやるような笑みを浮かべた。
「そもそも、侯爵様に言い寄るご令嬢なら、それこそ数え切れないほどおりました。ですが、侯爵様は一度たりとも、そんな女性たちに目を向けたことなどございません。旦那様は、はじめから――ずっと、奥様しか目に入っていらっしゃいませんでしたよ」
(本当は、十歳のあの森での出会いから今日に至るまで、あなた一筋で狂おしいほどの執着を抱えておられたのですが……!)と続けたいのを、リチャードは必死に飲み込んだ。側近の立場として勝手に過去のストーカーじみた恋路をベラベラと伝えるわけにもいかず、歯痒い思いを抱えながらも、それでも精一杯「旦那様がどれほどあなたを想っているか」を言葉に乗せる。
それに乗るように、隣に座っていたシビルも、ふふっと柔らかく微笑んで頷いた。
「本当ですよ、奥様。旦那様は、本当に奥様のことを深く愛してらっしゃいます。思い返せば、初めて奥様がお屋敷にいらっしゃったとき……まだご結婚される前の、あの時からすでに尋常ではありませんでしたもの」
「え……?」
「私どもに、奥様がお好きだというお菓子を用意するよう厳命なさったり、果物といえばとびきり上等なイチゴや桃をご自身で手配して、わざわざ取り寄せていらっしゃいましたからね」
そのシビルの言葉を聞いた瞬間、エカテリーナの脳裏に、かつての記憶が鮮やかに蘇ってきた。
初めてギルバートの屋敷を訪ねたときのこと。テーブルの上には、自分の好きなスイーツや果物が驚くほど自然に用意されていた。
あのとき、ギルバートは少し顔を赤らめながら、こう言ったのだ。
『……菓子は口に合ったか? 遠慮せずに、たくさん食べるがいい……』と。
続けてシビルが言う。
「それに、お召し物やアクセサリーについても……『今一番流行りのものを、奥様に似合う最高のものを取り揃えたい。自分では分からないから教えてくれ』と私たちに熱心に聞いてきたりして、本当に一生懸命でしたよ」
すべての点と点が、音を立てて繋がっていく。
さらに、あのプロポーズの日――彼が森の小屋を訪ねてきたときのことも。
彼はじっと、意味深な眼差しで自分を見つめていた。
あの視線の熱さに耐えかねて、自分が戸惑いながら「はじめまして」と挨拶してしまったこと。
(はじめまして、なんて……!)
私はあのとき、彼のそんな熱い想いに、まったく気づいてあげられなかった。
彼はどんな思いで、あのとき「政略結婚」だなんて言ったのだろう。
(面倒な令嬢のことも、何もかも……全部、全部ウソだったんだわ)
彼がそんな嘘をついてまで自分に近づき、結婚を申し込んでくれたのは、すべて――。
あのとき、自分が「結婚はもうこりごりです」と拒絶してしまったから。
だからこそ彼には、「契約」という形を取るしか、自分のそばにいる方法がなかったのだ。
エカテリーナの瞳から、温かな涙がぽろりと零れ落ちる。
――この人は、ずっと私だけを愛してくれていたのだ。
その事実が、今度こそ彼女の胸の奥に、確かなものとして刻まれた。




