第37話
夜、ベッドルームで冷たく拒絶されたギルバートは絶望に沈み、翌日、執務室でリチャードから報告を受けていた。
「リチャード、どうだった……? カティは何と言っていた!?」
リチャードは少し表情を曇らせ、慎重に言葉を選びながら告げた。
「……奥様に直接お尋ねしましたが、お答えは『気のせいです』と、これまで通り毅然としたものでした。……ですが」
「だが……?」
「奥様の心は明らかに沈んでおられ、私に対して余計な詮索をさせまいと必死に壁を作っておられました。……間違いなく、何か深刻な思い悩みを一人で抱え込んでおられます。このままでは、奥様はますます塞ぎ込んでしまいます」
「そんな……」
ガックリと肩を落とすギルバートに、リチャードは続けて助言した。
「侯爵様。奥様があそこまで頑なに心を閉ざしている以上、こちらから無理に問い詰めるのは逆効果かと。……ここは一つ『息抜きに街でもいかがですか』と、奥様に外出を促してみてはいかがでしょうか。少し外の空気を吸えば、奥様の心もほぐれるかもしれません」
リチャードのその助言に、ギルバートは「それがいい!」と、藁にもすがる思いで頷いた。
「……カティ。もし気晴らしになるなら、今日、街へ買い物に行ってきたらどうだ? ……」
――最近の冷たい態度が変わるきっかけになれば。そんな切ない願いを込めたギルバートの提案に、エカテリーナは少し驚いたように目を瞬かせたのち、「……わかりました。お言葉に甘えて、出かけてきますね」と、どこか他人行儀な微笑みを向けた。
(……ごめんね、バート。あなたの優しさが、今はすごく痛い……)
そうして、エカテリーナはシビル、ガワン、リチャードに付き添われ、馬車に揺られて王都の賑やかな大通りへと降り立った。
並び立つショップや色鮮やかな露店を見て回るうちに、エカテリーナも少しだけ肩の力が抜けるのを感じていた。
「奥様、あちらの織物は綺麗な色をしておりますね」
「本当だわ、シビル。あそこのお店に行ってみましょう」
和やかな空気が流れていた、その時だった。
「あら。――驚いたわね。こんなところで、侯爵夫人に会えるなんて」
上品でありながら、どこかトゲのある冷ややかな声が空気を切り裂いた。
振り返ると、そこには豪華なドレスに身を包んだ、いかにも気位の高そうな貴婦人が立っていた。ジュリアスの母親――レイチェルその人だった。
かつて冷酷にエカテリーナを見下し、屋敷のなかでまるで女中扱いしていた元・義母である。
「レイチェル様……」
エカテリーナが小さく息を呑む。周囲にいたリチャードやガワンが瞬時に警戒の色を強め、一歩前に出ようとしたが、レイチェルは冷笑を浮かべたままさらに言葉を重ねた。
「ふん、別の男に取り入って新しい侯爵夫人におさまり、今度は優雅に街でお買い物ですか。あなたのような薄幸の女が近くにいるだけで、周囲の運気まで下がりそうだわ――」
侮蔑の言葉を吐き捨てるレイチェルの目は、底知れぬ憎悪の色に染まっていた。
――得体のしれないドロドロとした感情が、ねっとりとした視線となってエカテリーナの全身を這いずり回る。
容赦なく突き刺さる言葉と、その底意地の悪い目に晒され、エカテリーナの心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
(……っ!)
呼吸が、できない。
「くっ……はっ……」
「お、奥様……っ!?」
異変に真っ先に気づいたシビルが悲鳴を上げ、エカテリーナの身体を支えようと駆け寄る。
全身からサーッと血の気が引いていき、視界がぐにゃりと歪んだ。激しい動悸と、喉を締め付けられるような窒息感。医師から告げられた余命が刻一刻と迫る中、発作の恐怖が彼女の心をさらに蝕んでいく――あの恐ろしい過呼吸と胸の痛みが、前触れもなく襲ってきたのだ。
「カティ様っ!」
リチャードが血相を変えて駆け寄り、ガワンが周囲の一般客を鋭い気迫で威圧して遠ざける。
「はぁっ、はぁ……っ……」
「奥様! しっかりなさってください、シビルがついております……!」
シビルが涙ぐみながらエカテリーナの背中をさすり、リチャードも青ざめた顔で彼女の様子を見守る。
だが、事態はそれで収まらなかった。パニックに包まれつつあった現場の空気を、さらに残酷な一言が凍りつかせる。
「あら、やだ。……もしかして、相変わらずその身体の不調も治っていないの?」
周囲の野次馬のざわめきを切り裂くように、レイチェルは冷ややかな嘲笑を浮かべ、苦しげに息を荒らげるエカテリーナを見下ろした。
「あの名高い聖騎士様の妻におさまっておきながら、そんな病持ちの身体で人前をうろつくなんて……相変わらず厚かましい女ね!」
「そこまでだ、夫人」
低い、凍てつくような怒気を孕んだ声が、レイチェルの言葉を遮った。
ガワンが一歩前に踏み出し、その鋭い眼光だけでレイチェルを牽制する。リチャードもまた、冷徹なまでの怒りを宿した目で彼女を睨みつけた。
「ひっ……!」
ガワンたちの殺気立った気迫に気圧され、レイチェルは思わず後ずさる。しかし、プライドからか、負け惜しむように「ふん、事実を言ったまでよ」と吐き捨てると、そそくさとその場から立ち去っていった。
そんなやり取りの最中も、エカテリーナはシビルに支えられながら、必死に呼吸を整えていた。
エカテリーナは震える手で懐から小さな薬の小瓶を取り出し、どうにか錠剤を口に放り込む。すぐに、青ざめた表情のシビルが差し出した水筒の水でそれを流し込んだ。
……数秒の、永遠にも思える沈黙のあと。
薬が効いたのか、暴れていた心臓の鼓動がわずかに緩み、激しい息切れを伴いながらも、エカテリーナは、どうにか意識を取り戻した。
(……そうだわ。私は、やっぱり……どこまでいっても、こういう人間なのよ……)
「病持ち」という事実。いつまた発作が起きて周囲に迷惑をかけるかわからない、この壊れやすい身体。
ギルバートがどれほど自分を愛してくれていたとしても、自分のこのどうしようもない現実が、いつか彼を縛りつけ、苦しめることになる――。
妖精たちの言葉で一度は温かく満たされたはずの胸が、再び冷たい絶望の底へと引きずり戻されていく。
大通りの中央で突如として起きた騒動は、野次馬たちの好奇の視線を集め、通りはたちまち喧噪に包まれていた。
「奥様、もう屋敷に戻りましょう……! お身体に障ります」
シビルが涙ぐみながら声をかけ、リチャードやガワンも心配そうに彼女を支える。
騒がしい視線と、自身の無力さに対する情けなさに耐えながら、エカテリーナはぐっと唇を噛み締め、静かにうなずくのだった。




