第36話
妻であるエカテリーナの突然の変化に、ギルバートは狂いそうになっていた。
つい最近まで「バート」と呼んでふんわりと甘えてくれていたはずなのに、ここ数日、明らかに様子がおかしい。
食事の席で頭を撫でようとすればスッと体を引かれ、ちょっとしたスキンシップも事務的な笑顔でかわされてしまう。夜、同じベッドに入っても、以前のように腕の中に収まってくれることはなく、背中を向けられてしまうのだ。
(……一体、なぜだ!? 俺が何か地雷を踏んだのか……!?)
日中、執務室で書類に目を通しながらも、ギルバートの頭の中はそればかりで全く仕事に手がつかない。
(嫌われた? いや、そんなはずは……。でも、もしかして俺の隠し事――十三年前からずっと見ていたストーカーじみた過去がどこかでバレたのか!? いや、それは妖精に口止めしたはずだ……!)
いてもたってもいられず、ギルバートは信頼する側近のリチャードを呼び出した。
「リチャード。カティが急に冷たくなった。……どうすれば機嫌を直すと思う」
「……侯爵様。奥様は、侯爵様のことをちゃんと大切に思っていらっしゃいますよ」
「なら、なぜだ! 最近、俺が触れようとすると露骨に避けるんだ! 俺が何か粗相をしたのだろうか……!?」
「……急に冷たくなったというなら、何か奥様ご自身の事情がおありなのでは」
ギルバートが十歳の頃からエカテリーナを想い続けていることを、リチャードはすべて知っている。
これまでもギルバートを水面下で支えてきた。
だからこそ、この不器用な主人の恋をなんとか成就させてあげたいと心から思っているのだ。
「カティ自身の事情……」
リチャードの言葉に、ギルバートははたと動きを止めた。彼女の体に隠された「余命」という残酷な秘密が脳裏をよぎり、胸の底が冷たく凍りつく。
(まさか……病状が悪化しているのか? だから俺を遠ざけようとしているのか……?)
不安と恐怖に顔色を青ざめさせるギルバートに、リチャードは意を決したように提案した。
「閣下、私が奥様の様子を、それとなく探ってみましょうか?」
「……頼む。お前なら、カティも警戒せずに話してくれるはずだ。何が原因なのか、できる限り探ってくれ……!」
主人の必死すぎる頼みに、リチャードは心の中で大きくため息をつきつつ、「かしこまりました」と執務室を後にしたのだった。
***
そして迎えた、夜。
寝室のベッドの上。背を向けて横たわるエカテリーナの後ろ姿を見つめながら、ギルバートはついに耐え切れず、そっと布団にもぐり込んで彼女を後ろから強く抱きしめた。
「っ……ギルバート様……? もう、お休みになられたほうが……」
慌てて体を離そうとするエカテリーナの腕を、ギルバートは許さなかった。彼女の細い体を後ろから抱きしめ、その髪に顔を埋める。声は、震えていた。
「……カティ」
「な、なんですか……」
「……最近、俺を避けてるよな……。前みたいに『バート』と呼んでくれないし、急にそんな他人行儀な話し方になって……」
「そんなこと……ありませんわ。気のせいです……」
事務的な、取り繕ったような返事。それがギルバートの胸を酷くえぐった。
以前の彼女なら、こんなふうに抱きしめれば、少し照れながらも温かく受け入れてくれたはずなのに。
「嘘だ。……俺が何かしたのか? それとも、俺と一緒にいるのが嫌になったのか……?」
低く、切なさに満ちたその声に、エカテリーナは胸が引き裂かれそうになった。
――嫌になんて、なるわけがない。本当は、今すぐにでも彼の腕にしがみついて、泣き叫びたいほど愛している。
だけど、ここで甘えてしまったら、彼を永遠の絶望に突き落としてしまう。だからこそ、冷たくしなければならないのに。
(ごめんね……ごめんね、バート……っ)
心の中で血を流しながら、エカテリーナは感情を押し殺した冷徹な仮面を貼り付けた。
「……勘違いなさらないでください、ギルバート様。私たちはあくまで『契約上の夫婦』ですもの。あまりベタベタされるのは、困りますわ」
その言葉を聞いた瞬間、ギルバートを包んでいた温もりが、音を立てて凍りついた。
かつて彼女が呼んでいた「バート」という愛称も、あの柔らかい笑顔もすべて消え失せ、冷ややかな敬語だけが突き刺さる。
それは、かつて自分たちが取り決めたはずの形でありながら、今のギルバートにとっては、処刑宣告よりも残酷に響いた。
「……カティ」
絶望に染まった瞳で妻の背中を見つめ返すことしかできず、ギルバートは締め付けられる胸を抑えながら、抱きしめる腕の力を緩めるしかないのであった。
(――契約上の夫婦……。そうだ、俺たちは最初からそうだった。彼女にとって、俺はただの……)
冷めきった言葉という鎖で自らを縛り上げるように、ギルバートは二度と彼女に触れられぬまま、暗闇の中でただ一人、呼吸をするのも忘れて絶望に浸るのだった。




