第31話
それからというもの、ギルバートの表向きのスタンスは徹底していた。
もしここで、ギルバートがエカテリーナに「愛している」と伝えれば、あの自己犠牲的な彼女のことだ――「自分は、あなたに迷惑をかける存在」「私を愛してはいけない」などと頑なに心を閉ざし、最悪の場合、彼の前から姿を消そうと逃げ出しかねない。
だからこそ、エカテリーナの負担にならないよう、あくまで「命の恩人である妻への義務と恩返し」という建前を崩さず、しかし確実に彼女の生活を守り抜く。
だが、その水面下では、ギルバートの狂気じみた行動が始まっていた。
(絶対に、死なせない)
国中の高名な医者を片っ端から極秘裏に招集するだけでは飽き足らず、信頼できる部下を使い、東方の秘境や魔術のルーツに至るまで「命を繋ぐ治療法」の調査を世界規模で極秘指令として出していた。
そして――ギルバートには、もう一つ気になることがあった。
ジュリアスが、なぜエカテリーナの余命を知っていたのか。
離婚後、エカテリーナの主治医がジュリアスのもとを訪ね、彼女の余命があと二年ほどしかないことを告げていたのだ。
その事実を知っていたからこそ、ジュリアスはあの夜会でエカテリーナの発作を目の当たりにし、ギルバートにも伝えなければならないと思ったのだった。
(……そういうことか)
さらに、エカテリーナの病の正体や発作の引き金を正確に把握するため、ギルバートはあろうことか、あのジュリアスを呼び出し――いや、半ば強制的に引っ張り出し、密かに酒を酌み交わすようになっていた。
「おい、ハワード」
「……侯爵閣下。まさか、呼び出されるとは……」
「……あの発作が起きる直前の状態について、お前が知っている限りのすべてを細かく話せ。些細なことでも見逃すな」
夜の静まり返ったバーの一角。
貴族らしからぬ殺伐とした雰囲気の中、現夫と元夫が、ひとりの女性の命を守るために向かい合い、酒を挟んで情報を交わすという、奇妙な関係が築かれていくのだった。
そんな水面下の緊迫した日々が続く中、ある夜のこと。
自室の寝室で、エカテリーナは窓の外の星空をぼんやりと眺めていた。あの夜会の一件以来、ギルバートはこれまで以上に優しく、けれどどこか痛切なほど丁寧に自分に接してくれている。
(……やっぱり、バートは、私が彼の命の恩人だから、これほどまでに気遣ってくれているのね……)
「……カティ」
思考に浸っていると、背後から低い声とともに、大きな温もりがふわりと包み込んできた。ギルバートが、仕事の合間を縫って寝室へと戻ってきたのだ。
「ギルバート様……お疲れ様です」
振り返ったところで、ギルバートはふっと柔らかく、けれど真剣な目を向けた。
「なぁ、カティ」
「な、なんですか……?」
「あのさ……少し、いいか」
珍しく歯切れの悪い夫の様子に、エカテリーナが首をかしげると、ギルバートは意を決したように低い、けれど優しい声で紡いだ。
「カティ……俺のことを『バート』と呼んでくれたよな」
「っ……! それは、その、たまたま、つい。勢いで……申し訳ありません」
「そうじゃない」
ギルバートは彼女の肩を優しく掴み、自分の方へとゆっくりと振り返らせた。その瞳には、切なさと、けれどどこか愛おしそうなどこまでも真っ直ぐな光が宿っていた。
「あのとき……カティが俺のことを『バート』と呼んだのが。あれが、すごく嬉しかったんだ。……だから、これからもそう呼んでほしい」
「え……?」
「敬語も、もういい。これから俺たちは対等だ。そして、これからもずっとこうして隣にいるんだ。だから……昔みたいに、フランクに話してくれ。頼む、カティ」
(……昔みたいに……? 契約上の夫婦なのに、私なんかと対等に話したいって……?)
エカテリーナは大きく見開いた瞳のまま、目の前にいる愛しい夫の顔を見つめた。
彼は、自分をただの「恩人」や「形だけの契約妻」として扱っているわけではない。もっと近くに、対等な存在として求めてくれているのだと気づいた瞬間、胸の奥が熱いもので満たされていく。
込み上げてくる涙を隠すように、エカテリーナはふわりと柔らかく、今日一番の笑顔を咲かせた。
「……うん。わかったわ、バート」
その名前を呼んだ瞬間、ギルバートの大きな体がわずかに震え、愛おしそうに彼女をしっかりと腕の中に閉じ込めた。
「ああ……いい子だ、カティ」
頭を優しく撫でられるその温もりに身を委ねながら、二人の間の見えない壁がまた一つ、音を立てて溶けていくのだった。




