第30話
ジュリアスとの面会を終えたその足で、ギルバートは急ぎ足でレイヴン侯爵邸へと戻った。
だが、屋敷の玄関をくぐるなり、慌てた様子のエカテリーナの専属メイド、シビルから声をかけられる。
「侯爵様! 奥様が、昨夜からずっと寝室に閉じこもったまま……朝食も召し上がらないのです!」
その言葉を聞いた瞬間、ギルバートの血の気が一気に引いた。
(俺のせいだ! 彼女を……あの体に、そこまでの負担をかけてしまったなんて……っ!)
激しい自己嫌悪と恐怖に心臓を抉られながら、ギルバートは階段を駆け上がり、寝室の扉を勢いよく開け放った。
「……カティ!」
息を切らして飛び込んだ部屋の中。
ベッドの端に腰掛けたエカテリーナは、やはり泣きはらしたような赤い目をしていた。
彼女の肩が小さく震えているのを見た瞬間、ギルバートは胸が張り裂けそうになる。
余命のことなど何も知らず、自分の傲慢な嫉妬で彼女を追い詰めてしまった。
その事実に打ちのめされながら、ギルバートはゆっくりと歩み寄り、エカテリーナの細い肩をそっと抱き寄せた。
「っ……ギルバート様?」
突然のことに驚くエカテリーナを前に、ギルバートは歯を食いしばり、苦悶に満ちた声を絞り出した。
「……すまない、カティ。昨夜は、勝手に苛立ち……乱暴な真似をして、酷い言葉を浴びせた。……本当に、すまなかった」
必死に謝罪するギルバートの瞳には、昨夜の狂気など微塵もなかった。
そこにあるのは、彼女を追い詰めてしまったことへの後悔と、壊れ物を扱うような痛切な切なさだけだった。
(……ギルバート様。あんなふうに激昂してしまったことを、今もずっと激しく後悔しているのね……。本当に、どこまで真面目で優しい方なのかしら)
自分はあくまで契約上の妻。
昔、彼の命を救った過去があるからこそ、彼はこれほどまでに責任を感じ、苦しんでいるのだと、エカテリーナは思い込んでいた。
「ギルバート様……私のことを……命の恩人として、そんなに心配してくれて……本当に、ありがとう」
耳元で囁かれたその声は、どこまでも柔らかく、温かかった。
そして――。
エカテリーナが愛おしそうに彼の頬へ自分の頬を寄せ、優しくその名を紡いだ。
「……バート、ありがとう」
その瞬間。
ギルバートは、息を呑んだ。
胸の奥を、何かに強く掴まれたようだった。
十三年前。
森の中の小さな家で、自分を「坊や」と呼び、笑いかけてくれた少女。
『イチゴと桃が大好き!』
そう言って、太陽のような笑顔を浮かべた少女。
――あの日から、ずっと。
誰にも呼ばれることのなかったその名を、彼女だけが知っていた。
そして今、その彼女が。
傷つけてしまった自分を責めるどころか、まるで慈しむように、その名を呼んでいる。
「……っ」
ギルバートの身体が、わずかに震えた。
十三年間、胸の奥に閉じ込め続けてきた想いが、一瞬で溢れ出しそうになる。
「カティ……」
思わず零れた掠れた声には、溢れんばかりの愛おしさと、彼女に触れられることへの歓喜、そして、彼女を追い詰めてしまったという激しい自責が、どす黒いほどの熱を帯びて彼の胸を焦がした。
(俺のせいで苦しんでいたはずなのに、なぜあなたはそんなふうに……俺を包み込もうとするんだ)
本当は、今すぐその細い体を強く抱きしめ、「あなたを愛している」「どこにも行かないでくれ」と叫びだしたかった。
だが、喉まで出かかったその言葉を、ギルバートは必死の形相で飲み込む。
――今、自分が「愛している」と伝えれば、優しすぎる彼女は「彼の重荷になりたくない」「残された時間で彼を縛りたくない」と罪悪感を抱き、自分の前から静かに姿を消してしまうかもしれない。
その恐怖が、彼の理性を辛うじて繋ぎ止めていた。
ギルバートは震える腕に力を込め、壊れ物を扱うように、愛おしげに彼女の背中をそっと抱き返した。
ただ、「傷つけた妻を気遣う優しく誠実な夫」の仮面を被ったまま。
「……ああ。もう大丈夫だ、カティ……」
それは、彼が必死に隠した本心の代わりに口にした言葉。
そして――残された時間の中で、決して彼女をひとりにはしないという、狂おしいほどの誓いでもあった。




