第29話
ジュリアスが王立高等部に入学したのは、ハワード家が商売で財を成し、男爵位を得て間もない頃だった。
幼い頃――まだ家が貧しかった時期、店先で薄汚れた身なりのまま、母レイチェルの手伝いをしていたジュリアスの前に、一人の気品ある少女が現れた。母親と一緒に買い物に来ていたその少女は、店頭のイチゴや桃を見て目を輝かせると、「これ、すごく美味しそう!」と無邪気に微笑んだ。
母親が多めにと金を払い、さらに少女は、買い求めたばかりの瑞々しい果物の中から「これ、お裾分け!」と、ジュリアスに一つ差し出したのだ。
「……え?」
突然のことに面食らいながらも、差し出された甘い果物を手に取ったとき、胸の奥がキュッと熱くなった。見窄らしい自分を蔑むこともなく、ただ純粋な笑顔を向けてくれたことが、当時のジュリアスにとってどれほど嬉しかったか。あまりの嬉しさに顔を真っ赤にして俯いた彼は、照れ隠しから上手くお礼の言葉も返せなかったのだった。
(……あのときの小娘が、まさか同じ学校にいるなんてな)
エカテリーナ・ヴェルツ。
由緒ある子爵家の令嬢であり、絵に描いたような気高さと凛とした美しさを持つ少女。
古くからの伝統や様式を律義に守る彼女の姿は、当時のジュリアスにとって、眩しすぎるがゆえに、なぜかひどく苛立たせる存在だった。
(……なんだよ、あのすまし顔は。いつも気取りやがって……)
そう心の中で悪態をつきながらも、ジュリアスは彼女の姿を目で追わずにはいられなかった。あの日もらった果物の甘い記憶が心のどこかに焼きついているからこそ、余計に素直になれなかったのだ。
忘れもしない、入学して間もない頃のことだ。
校内でハンカチも持たず、濡れた手をズボンで適当に拭いていたジュリアスの姿を、エカテリーナは見咎めた。彼女は困ったような、しかし慈しむような笑みを浮かべ、そっと自分のハンカチを差し出したのだ。
「良かったら、こちらをお使いになって」
「……は?」
「ちゃんと手を洗わなくてはダメですよ。どんな黴菌がついているかわからないですからね」
育ちが悪く、衛生観念すらろくになかったジュリアスにとって、その言葉は衝撃だった。恥ずかしさとプライドから素直に礼も言えなかったが、その時に差し出された上品なハンカチの感触と、彼女の温かな眼差しを、ジュリアスはなぜかずっと忘れられずにいた。
その後、何度もそのハンカチを返そうとしたが、近づくことすらできなかった。自分は中身のない、見せかけだけの貴族で、彼女とは格が違う。そう思い知らされるのが怖かったのだ。
結局、返せないまま持ち続けていたそのハンカチは、いつしか彼の中での「届かない憧れ」の象徴になっていた。ジュリアスは、ずっと前からエカテリーナが好きでたまらなかったのだ。
しかし、卒業後は接点もなく、やがて世界中で魔物が猛威を振るい始め、騎士たちが魔物の討伐に奔走する激動の時代へと突入していった。勇気ある者たちが志願する中、ジュリアスは「面倒臭い」という理由で何もしなかった。
そんな折、ジュリアスの耳にひとつの噂が飛び込んできた。
エカテリーナの実母であるマリアが亡くなったあと、父親が新しい妻と連れ子を家に迎え入れたという。だが、その新しい家族たちの金遣いが異常に荒く、子爵家の財政は急速に困窮しきっているらしい。エカテリーナ自身も、家計を支えるために懸命に働いているというのがもっぱらの噂だった。
その情報を耳にしたレイチェルが、目を輝かせてジュリアスに言った。
「今がチャンスよ。エカテリーナに結婚を申し込みなさい。あんな名門でも、今じゃ、金に困ってるっていうじゃない。援助を申し出ればすぐに飛びついてくるはずよ」
「……そんなの、無理だよ」と最初は尻込みしたジュリアスだったが、心の奥底では「あのエカテリーナを自分のものにできるかもしれない」という強烈な欲望が疼いた。
ずっと好きだった。
彼女の笑顔を、自分に向けさせたい。
ありとあらゆる自分の想いを乗せ、ジュリアスは彼女に求婚した。
そして、エカテリーナがその申し出を受けてくれた時、彼は自分の耳を疑うほど歓喜した。――夢ではないかと思った。
だが、結婚式を終えて屋敷に戻ったその日から、歯車は狂い始めた。
レイチェルから「妻一人に満足するようでは、貴族として恥ずかしい」と執拗に吹き込まれ、寝室は早々に別にされた。それどころか、すぐに愛人(妾)を作ることを強要されたのだ。ジュリアスはそれを何の疑問も持たず、むしろ当然のことのようにエカテリーナへ告げた。
――いや、疑問に思うことすらできなかった。
母の言葉はいつだってジュリアスにとって絶対であり、逆らうという選択肢など脳裏すらよぎらなかったのだ。振り返れば、いつの間にか自分は母親の操り人形のように、母の価値観こそが世界のすべてだと思い込まされていた。
そして何より――。
ずっと焦がれていたはずのエカテリーナに、いざ触れようと手を伸ばすと、ジュリアスの心はなぜか言いようのない猛烈な嫌悪感に苛まれた。身震いするような拒絶感が湧き上がり、どうしても指一本触れることができない。結局、夫婦でありながら、一度もキスすらしたことがなかった。
心の奥では求めているはずなのに、身体と理性が勝手に拒絶する。その理由すら分からないまま、ジュリアスは現実逃避するように外の愛人たちのもとへと逃げるようになっていった。
ジュリアスが彼女を完全に放置し、愛さなくとも、彼女は決して取り乱すこともなかった。彼女の完璧な所作、知性、そしてどんな時も崩れないおおらかな余裕と笑顔。
そのすべてが、自分とは決定的に違う「生まれ持った本物の気高さ」のように感じられて仕方がなかった。彼女と一緒にいると、自分がどれほど空っぽで、薄っぺらい人間であるかを突きつけられているような気持ちになる。
(……なんで、こいつはいつもこうなんだ……)
劣等感からくる苛立ちは、やがて歪んだプライドへと変わり、ジュリアスは彼女を冷遇するようになっていった。
レイチェルがエカテリーナにひどい嫌がらせをしていても、彼は母に逆らえなかった。いや、逆らう気力すら湧かなかった。母の言うことこそが正しく、それに従うことが自分の務めだと、思考の根っこから塗りつぶされていたからだ。
妻を傷つけ、すり減らし、地獄のような思いをさせていたこと。
――すべてを壊してから気づいたところで、もう取り返しなどつかない。
ジュリアスは引き出しの奥から、ずっと捨てられずにいた一枚のハンカチを取り出し、縋るように、頬をそっと押し当てた。




