第28話
翌朝。
柔らかい朝日が差し込む寝室で、エカテリーナは静かに目を覚ました。
いつもはそこにいるギルバートの温かさがないことに、また涙があふれてくる。
昨晩のことを思い出しては、後悔ばかりが募っていた。
***
朝から書類の山に埋もれるように、ギルバートは執務室で一人、仕事に向き合っていた。
昨晩は一睡もできなかった。
そこへ、突然のノックの音が響く。
「失礼します、侯爵様」
顔を上げたギルバートの前に立ったのは、側近のリチャードだった。
リチャードはわずかに眉をひそめ、言いづらそうに口を開く。
「あの……お客人です。面会を求めて、どうしてもお通ししろと譲らない者がおりまして」
「客だと? この忙しい時期に、面会の約束もない者など断れ」
「それが……ジュリアス・ハワードです。どうしても侯爵様に直接話したいことがあると」
その名前を聞いた瞬間、ギルバートの眉間に深いしわが寄った。
昨日の夜会で、エカテリーナとジュリアスは何かを隠していた。真実を知りたい。けれど、それを知ることが怖くもあった。
エカテリーナがジュリアスをまだ愛していて、自分のことなど微塵も愛していないという現実を突き付けられるかもしれないと。
それでも。
殺気すら滲ませるギルバートに対し、リチャードは慎重に言葉を継ぐ。
「追い返そうとしましたが、奥様の身に関わる重大な話だと言い張っていまして……。いかがいたしましょう」
ギルバートは冷たく鼻を鳴らし、歯噛みした。
カティの名前を出すとは、やはり……。
「……通せ」
「承知いたしました」
ギルバートは覚悟を決めた。
――心の準備は、もうできている。
カティが元の夫を忘れられないのなら。
もう一度、あの男とやり直したいと思っているのなら。
そして、それを彼女自身が望んでいるのなら。
自分はもう、邪魔をしてはいけない。
扉が開き、入ってきた人物の顔を見た瞬間、ギルバートの怒気はさらに跳ね上がった。
殺気すら帯びた冷ややかな視線を向けるギルバートに対し、ジュリアスは、どこか青白い顔で苦しそうに息を吐き、痛切な目を向けた。
「……侯爵閣下。あなたに、どうしても伝えておかなければならないことがある」
「なんだ? さっさと話せ!」
「……あなたは、カティを……エカテリーナを、本当に愛しているのか?」
その問いに、ギルバートは顔をゆがめた。
やはり……カティは、この男を――!
「お前には、関係のないことだ!」
「いや、関係がある。もしあなたが本当に彼女を愛しているのなら……どうしても、伝えなければならないことがあるんだ」
ギルバートの恐ろしい眼差しに、ジュリアスはぐっと唇を噛み締める。
そして、何かを断ち切るように声を絞り出した。
「あなたが、カティを愛していないのなら……! 俺が、俺が最後まで彼女のそばにいる!」
「……何が言いたい」
「……カティは、余命二年だと医師から告げられていたんだ。それが分かったのは、あなたと結婚する少し前のことだった……」
「は? 何をふざけたことを……!」
ジュリアスはごくりと唾を飲み込み、震える声で告げた。
「嘘じゃない……。現に、あのパーティーの最中……カティは、またあの『発作』を起こしかけていた」
発作。
その単語を聞いた瞬間、ギルバートの胸の奥で、嫌な予感が激しく波打った。
(……発作? カティが……?)
昨夜、夜会でジュリアスと向き合い、目にはうっすらと涙を浮かべ、頬を赤らめていたあの姿。あれは愛の歓喜などではなく、発作の苦しみに耐えていたからだったのか――!?
「なんだと……今、なんて言った……?」
「本当だ。嘘じゃない……!」
ジュリアスは苦悶の表情を浮かべ、自らの頭をかきむしった。
「――っ……!?」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
血の気が一気に引き、ギルバートは椅子からガタリと立ち上がった。
「だから、あの時……俺はパーティーの最中に、彼女に謝っていたんだ……。自分がどれほど彼女を傷つけてきたのかも知らず、俺は……離婚なんてしなければよかったと、今更後悔して……!」
頭の中で、これまでのすべての出来事が、音を立てて噛み合っていく。
――「二年経ったら、私とは離婚してください」
エカテリーナが契約結婚を持ちかけたとき、そう言った理由。ふたりで穏やかに暮らしていく中で、彼女がどこか儚げな影をまとっていた理由。
そのすべてが、残酷な真実となってギルバートの全身を打ち抜いた。
(俺は……彼女の苦しみも何も知らずに……!)
「……っ、ふざけるな……!」
激昂したギルバートは椅子を蹴飛ばし、ジュリアスの胸倉を掴み上げた。
「お前は……! 近くにいながら、彼女がそんな身体だということにすら気づいていなかったのかッ……!」
「ああ、その通りだ……!」
ジュリアスは抵抗もせず、涙に濡れた目をギルバートに向けた。
「俺は、劣等感とくだらないプライドにばかり囚われて、彼女を見ていなかった。……本当に、ひどいことをした。俺は最低のクズだ……。だからこそ、せめてあなたには……!」
ギルバートはわなわなと震える手を握りしめ、ゆっくりとジュリアスの胸倉から手を離した。
怒りと、どうしようもない後悔と、そして愛しい人を失うかもしれない恐怖が、津波のように押し寄せてくる。
(俺は……彼女の苦しみから目を背け、あろうことか『自分を信用していない』などと怒り狂い、強引に彼女を壁へと追い詰めて……!)
昨夜、自分が彼女に浴びせた冷酷な言葉と、怯える彼女の姿が脳裏をよぎり、ギルバートの心臓が激しく悲鳴を上げた。
ギルバートは膝が折れそうになるのを必死にこらえ、ただただ絶望の淵へと突き落とされるのだった。




