第27話
夜会会場から引き離されるように馬車に押し込まれ、王都の屋敷へと連れ戻される道中、ギルバートは一言も発しなかった。
その横顔は夜の闇よりも深く凍りつき、車内には息が詰まるほどの殺気と重い沈黙が満ちていた。
屋敷に到着するやいなや、ギルバートはエカテリーナの手首を掴み、他の使用人たちが息を呑むのも構わず、一直線に自分たちの寝室へと連れ込んだ。
ガチャリ、と重く扉が閉ざされる。
「っ……ギルバート様……」
動揺するエカテリーナを逃がさないように、ギルバートは彼女の腕を引いて、一気に部屋の壁へと追い詰めた。
ガツン、と背中が冷たい壁に当たる。
「っ……!」
逃げ場を塞ぐように、ギルバートが彼女の両脇の壁に両手をつき、エカテリーナを文字通り自分の身体で閉じ込めた。
覆いかぶさってきた彼の瞳には、理性が焼き切れたような狂おしい独占欲と激しい怒り、そして疑念の炎が渦巻いていた。
「ギルバート……さま……っ!」
「……答えてくれ、カティ。さっきあの男は、何を言おうとしていた……? なぜあなたは、あいつの言葉を必死になって遮ったんだ!」
荒い息を吐きながら、ギルバートは乱れた彼女の肩口に手をかけた。
「待ってください! ギルバート様、いったいどうしてこんなことを――っ!」
「俺に隠して、あの男と何を共有している! 俺には言えない秘密が、あいつとの間にあるというのか……!」
耳元で低く唸るような声を上げながら、ギルバートは月光石の輝く首筋へと熱い唇を寄せた。
肌に吸い付くような熱に、エカテリーナが小さく身を震わせた直後、チリッとした小さな痛みが走る。
(……ジュリアスが私の余命のことを言おうとしたのを止めたせいで、私たちが隠し事をしていると思われた……?)
「ち、違います! ジュリアスと特別な秘密なんて、何も――!」
「嘘をつくな!」
ギルバートは動きをピタリと止め、ゆっくりと顔を上げた。
その潤んだ瞳には、嫉妬だけでなく、愛する者に裏切られるかもしれないという、深く冷たい絶望の色が浮かんでいた。
「……あなたは、あの男と何かを隠している。俺には本当のことを話してくれない。……やはり、あなたの心にはまだあの男が……」
「ち、違います! ジュリアスになんて、これっぽっちも――っ!」
必死に否定するエカテリーナの声は、しかしギルバートの耳には届かなかった。
彼女が必死になればなるほど、ギルバートの疑念は深まっていった。
――自分に言えない重大な秘密を、元夫と共有している。
――俺は所詮、形だけの契約上の夫でしかない。
そんな思い込みが、彼の胸の中で膨れ上がっていく。
これ以上踏み込んで、彼女の口から残酷な真実を聞かされるのが怖かった。
それ以上に、彼女を問い詰めて怯えさせることが、耐えられなかった。
ギルバートはガタリと両腕を壁から外し、乱れた髪を掻きむしりながら、血の気が引いた顔で大きく息を吐き出した。
「……っ……、すまない」
冷酷な「氷の騎士」らしからぬ、自嘲の色を帯びた掠れた声。
「……俺が、勝手に踏み込みすぎた。あなたにはあなたの、俺に言えない事情があるんだろう……。すまなかった、カティ」
その姿は、冷徹な侯爵でも英雄の聖騎士でもなく、ただ拒絶されることを恐れ、自ら身を引こうとする不器用な青年そのものだった。
壁を背に、月光石のネックレスを揺らしながら、エカテリーナは呆然と彼を見上げる。
(ギルバート様……?)
彼女が弁解しようと口を開きかけた、その時。
ギルバートは、すでに背を向けていた。
「……今日はもう休め。俺は執務室に行く」
冷たく言い残すと、ギルバートは二度と振り返ることもなく、寝室の扉を閉めて出て行ってしまった。
静まり返った部屋に取り残され、エカテリーナはベッドの上で小さく身を縮こまらせた。
あのとき、ジュリアスの口を無理にでも塞いだのは、「余命のこと」を知られたくなかったからだ。
けれど、それを説明しようにも、「限られた期限しか生きられない」という最大の秘密を打ち明けるわけにはいかない。
(かといって、「隠し事なんて何もない」と嘘をついても、あんなふうに必死で遮った姿を見られてしまっては、到底信じてもらえないわ……!)
彼に壁へと追い詰められたあの瞬間の、殺気立つほどに熱を帯びた瞳を思い出す。
それでも、胸が高鳴るのと同時に、強烈な自己嫌悪が襲いかかる。
「元夫との間に何かあると思われている」という現実と、それでも真実を絶対に話せないというジレンマに挟まれ、エカテリーナの瞳から、悔しさと切なさの入り混じった涙がポロポロとこぼれ落ちた。
さっき、ギルバートが口づけた首筋に、ヒリヒリとした鈍い熱を感じる。
そこに刻まれた痕が、彼が抱いた激しい嫉妬と執着の証を物語っていた。
――そして、思い出すのは夜会で起きたことだった。
久しぶりに、激しい発作が彼女の身体を襲った。
医者から告げられた余命――残された時間は、刻一刻と失われていく。
ギルバートとこの温かい屋敷で過ごす日々があまりにも心地よくて、忘れていたけれど。
残された時間は、もうわずかしかないのだ。
彼に嫌われてしまった……。
彼女がベッドの上で一人、冷え切った身体を細い腕で抱きしめ、ただ震えている頃――
一方、執務室へ向かったギルバートもまた、暗い部屋の中で一人、頭を抱えていた。
机に突っ伏し、荒い息を吐き出しながら、彼の胸中に渦巻いていたのは、激しい後悔と自己嫌悪だった。
(俺は……いったい何をやってるんだ……っ)
嫉妬に目が眩み、強引に彼女を壁へと追い詰め、あんなにも乱暴な真似をしてしまった。
怯える彼女の姿を思い出すだけで、自分の愚かさが胸を突き刺す。
しかし、それ以上にギルバートの心を深く抉っていたのは、「彼女が自分を信用してくれていないかもしれない」という疑念だった。
(なぜ、あの男の言葉をあそこまで必死に遮った……? 俺には言えない何かを、あの男とは共有しているというのか……?)
「二年での離婚」という契約の縛り。
彼女が自分に見せる優しさは、すべて義務や気遣いなだけで、本当の心はどこにもないのではないかという恐怖。
(……これ以上、問い詰めてはいけない。カティを怖がらせたくない。なのに……この胸の中に湧いた疑念を、どうすれば消せる……?)
二人の間には、お互いを大切に想うがゆえに生まれた、致命的な溝とすれ違いの影が、重く、重く落ち始めていた。




