第26話
あれから、ギルバートはもう、自分の気持ちを隠し通すことができなくなっていた。
いっそのこと、自分から告白してしまいたい――そう思う一方で、「恋愛経験ゼロの氷の騎士」である彼には、どうやって告げればいいのか皆目見当もつかない。
「二年で離婚だ」などという彼女の契約の縛りも無視して、ずっと手元に置いておきたい。けれど、急に距離を詰めて怖がられたらどうしようという臆病な恐れも、心の奥底には根強く残っていた。
(……それに、もし万が一……俺がずっと彼女を見つめ続けていたなんて知られたら、気味悪がられてしまうんじゃないか……?)
うっかり自分の重すぎる過去や執着がバレて怯えられることだけは絶対に避けたい。だからこそ、表向きは「あくまで優しい夫・恩人への気遣い」というスタンスを崩せず、もどかしい思いを抱えていたのだった。
とはいえ、目の前で微笑む彼女への募る愛しさを抑えきれず、彼は最近、周囲の目など気にしていられなくなっていた。どこでも、誰の前でも、人目もはばからずについ甘いスキンシップを仕掛けてしまう。
最初こそ顔を真っ赤にして慌てていたエカテリーナだったが、今ではその温もりに嬉しそうに胸をときめかせ、穏やかに受け入れてくれるようになっていた。
そんな甘やかな日常を噛み締めながら、ふたりの間には穏やかで心地よい時間が流れていた。
そんなある日、王宮で盛大な夜会が催されることになり、レイヴン侯爵家へも招待状が届いた。
当然のように、ギルバートはエカテリーナと共に出席すると告げる。
「夜会には、俺の妻にふさわしい最高のドレスを用意しよう。宝石は、あの月光石をぜひ身にまとってほしい」
「承知いたしました。レイヴン侯爵夫人が身に着ける伝統の品ですものね」
エカテリーナがふわりと微笑むと、ギルバートは愛おしそうに彼女の髪をすくい取り、その一筋にそっと唇を落とした。
そして、夜会当日。
漆黒の軍服に身を包んだギルバートにエスコートされ、エカテリーナはまばゆい光に満ちた大広間へと足を踏み入れた。胸元には、その美しさを引き立てる月光石のネックレスが静かに輝いている。
かつて、ジュリアスと一緒に参加していた頃とは比べ物にならなかった。
今や周囲の貴族たちはもちろん、王族の面々までが次々と声をかけてくる。エカテリーナの凛とした佇まいと教養ある受け答えに、誰もが感嘆の声を漏らし、高位の者たちからも次々と好意的な視線が向けられた。
しばらくして、ギルバートが王太子殿下と真剣な政治の話に入ったため、エカテリーナは少しだけ離れた柱の影で静かに待つことにした。
――と、そこに。
「……カティ、会いたかった!」
聞こえてきた声にハッとして振り返ると、そこには何とも言えない、泣き出しそうな顔をしたジュリアスの姿があった。別人のようにやつれ、憔悴しきった元夫の姿に、エカテリーナは小さく息を呑む。
「ジュリアス……あなた、いったいどうしてここに?」
「カティ、頼むから聞いてくれ! 俺……君がかかっていたあの医者に、すべて聞いてしまったんだ! なんで黙ってたんだよ、余命が二年しかないなんて……!」
ジュリアスの声が、わずかに震えている。
「俺は、なんてひどいことを……君にあんな仕打ちをして……ずっと、ずっと後悔してたんだ……!」
思い詰めたように頭を抱える元夫を見つめ、エカテリーナは静かに首を振った。
「……ジュリアス。もう、そんな話は済んだことよ。終わったの」
かつては冷遇されるたびに胸を痛めていたはずなのに、今のエカテリーナにとって、目の前で喚く元夫の姿は何の感慨も呼び起こさなかった。
「今、カティは本当に幸せなのか!? あの『冷徹の騎士』と言われているレイヴン侯爵だぞ、あいつは本当に大丈夫なのかよ!?」
「ええ、とてもよくしてくださるわ。あの方の優しさに、私は救われているの」
これはエカテリーナの本心であった。契約結婚のこの数ヶ月間、ギルバートが注いでくれた圧倒的な温もりと、惜しみない優しさは、日々をただ生きるだけだった彼女に、「大切にされること」の尊さを教えてくれた。
エカテリーナが穏やかにそう答えると、ジュリアスは信じられないものを見るように目を見張り、そして、必死な様子でかぶりを振った。
「そんなはずないだろう! なんであの男が、君によくする理由があるんだよ! お前はだまされているんだ……! なあ、頼むからもう一度、俺とやり直そうじゃないか!」
必死にすがりついてくるジュリアスに、エカテリーナはハッキリと冷たく告げた。
「ごめんなさい、ジュリアス。もう、あなたとは絶対に無理よ」
――不思議と、この男に対して何も感じない。未練どころか、怒りすらもう湧いてこない。
その緊迫したやり取りを、遠くから冷ややかな視線で見つめる影があった。レイチェルだ。
彼女は鼻で笑うと、すたすたと歩み寄り、冷たい毒を吐き捨てるように言った。
「あら、カティじゃないの?」
レイチェルの姿を見た瞬間、エカテリーナの頭がぐらりと揺らいだ。
(っ……このタイミングで……っ!)
数ヶ月ぶりに、あの激しい発作が襲ってきた。めまいに視界が歪み、立っているのもやっとの苦しさが胸を締め付ける。
「レイヴン侯爵と結婚するなんて、どんな手を使ったのやら。おまけに、相変わらず病気持ちだなんて――本当に、気味の悪い女だこと!」
嫌味を吐き捨てたレイチェルは、しばらくの間エカテリーナを憎しみを込めた目で睨みつけていたが、ふん、と鼻を鳴らして優雅に去っていった。
柱に手を突き、必死で呼吸を整えるエカテリーナ。
数秒の長い沈黙のあと、じわじわと発作の波が引いていく。
「……っ、はぁ……ふぅ……」
「おい、カティ、大丈夫か!?」
青ざめた顔でフラつくエカテリーナを、ジュリアスが慌てて支えようと手を伸ばす。
エカテリーナはふう、と小さく息を吐き出すと、心配そうに自分を見つめる元夫の顔を見て、皮肉っぽく、しかしどこか力が抜けたように小さく笑った。
「ふふ……ジュリアス。あなたが私を心配してくれたのなんて、結婚生活を通じて一度もなかったのにね」
発作の余韻で目にはうっすらと涙が溜まり、苦しさで頬はほんのりと紅潮している。その表情は、彼女の普段の凛とした姿とは違い、どこか儚げで、切なげな色を帯びていた。
ちょうどその頃――。
王太子との長かった会話をようやく終えたギルバートは、「待たせたな、カティ」と微笑みながら彼女の方を振り返った。
しかし、その目に飛び込んできた光景は、ギルバートの思考を完全にフリーズさせるものだった。
――エカテリーナが、あのジュリアスと親しげに向き合っている。 しかも、目にはうっすらと涙を浮かべ、頬を赤らめながら、その男に向けて柔らかな笑みを向けているではないか。
(……は……? なんだ、あれは……?)
心臓が氷点下に冷え込み、全身の血が逆流するような強烈な衝撃。 ギルバートの脳裏に、最悪すぎる勘違いが猛烈な勢いで組み上がっていった。
(まさか……カティは、まだあの男に未練が……? 別れたはずの元夫にうるんだ瞳で笑顔を向けているだなんて――俺といるときはあんな顔をしたことはない……!)
嫉妬と怒りと絶望が入り混じった狂気のような感情が、ギルバートの理性を一瞬で焼き尽くした。
「…………っ!」
無言のまま、ギルバートは獣のような足取りで、ふたりのもとへツカツカと歩み寄る。 そして、逃がさないと言わんばかりに、エカテリーナの腰を強く引き寄せた。
「えっ……え?ギルバート様……?」
突然の強引な抱擁に息を呑むエカテリーナの耳に、底冷えするような、恐ろしいほど低く凍りついた声が響く。
ギルバートは、青ざめるジュリアスを殺気立つ瞳で真っ直ぐに睨みつけ、凄まじい圧力を込めて言い放った。
「――我が妻に、これ以上気安く触れ、話しかけるな。消え失せろ」
しかし、その圧倒的な威圧感を前にしても、ジュリアスは怯むどころか必死の形相で縋るように声を張り上げた。
「ま、待ってくれ、レイヴン侯爵! あなたにどうしても伝えなければならないことが――」
ジュリアスが言いかけたその瞬間、エカテリーナの顔から血の気がスーッと引いた。
(――っ! まさか、余命のことを話す気……!?)
「――ジュリアス! 言わないで……!」
エカテリーナは慌ててジュリアスを制止するように叫ぶ。彼女のその必死な様子は、ギルバートの目には「まだあの男と通じ合っている、隠し事を共有している」としか映らなかった。
――ドクン、とギルバートの中で黒い感情が激しく逆巻く。
(なんだ……? なんだというのだ……。あの男が俺に言おうとしたのは……? なぜカティはそこまで必死に、あの男の言葉を遮る……!? ふたりで何を隠しているというんだ……!)
嫉妬の炎に怒りが油を注ぎ、ギルバートの瞳は底知れぬ暗い色に染まった。
「貴様が今、言いかけたこととは何だ。……俺に隠して、我が妻と何を共有している?」
ギルバートの瞳に宿る色は、ただの嫉妬だけではない。自分に一言も相談せず、元夫とだけが知っている秘密があるかもしれないという、強烈な不信感と怒りだった。
「っ……それは……」
ジュリアスが気圧されながらも口を開きかけたその時――エカテリーナはギルバートの腕の中で顔を上げ、ジュリアスを必死の眼差しで見つめると、頼むからそれ以上言わないでと首を横に激しく振った。
「やめて……! 言わないで!」
涙を浮かべ、必死のアイコンタクトで懇願を向けているエカテリーナ。 しかし、今のギルバートにとって、その態度は「夫である自分を無視して、元夫と秘密のやり取りをし、それを守ろうとしている」としか映らなかった。
「……俺には言えないが、あの男には言える秘密が、カティにはあるということか」
ギルバートは底知れぬ絶望を感じていた。
「……帰るぞ」
ギルバートはそれ以上言葉を交わすことなく、硬く閉ざした表情のまま、震えるエカテリーナの手首を力強く掴んで夜会会場を後にした。




