第25話
翌朝。
昨夜の冷え切ったすれ違いなど嘘のように、エカテリーナはいつもの穏やかな笑みを浮かべ、ギルバートに「おはようございます」と挨拶をした。
笑顔で一緒に朝食をとり、笑顔で彼を送り出す。
(……完璧な「妻役」を演じきらなくちゃ)
心の中では昨夜の切なさが小さく疼いていたが、彼女はそれを奥底へと押し込め、いつも通りの丁寧な妻を全うしようと努めていた。
一方、ギルバートは、昨夜の「命の恩人だから」と言ってしまったことに気まずさを感じていた。
そんな中、旅行で長期間留守にしていた分の仕事が山積みになっており、ギルバートは連日多忙を極めていた。
(旅行のしわ寄せで、ここ数日は本当に忙しいな……)
深夜遅くに執務室での仕事を終えて屋敷へ戻ると、すでにエカテリーナは穏やかな寝息を立てて眠っていた。 ギルバートは、彼女を起こしてしまわないよう、そして自分のせいで彼女が気を遣わないよう、別の部屋で、短い睡眠をとるようにしていたのだ。
だが、残されたエカテリーナの側からすれば――。
夜になっても夫が寝室に戻ってこず、早朝にはもう出かけているような日々が数日続くと、どうしても不安になってしまう。
(やっぱり……私がいると、ギルバート様を窮屈にさせてしまうのかしら? 先日の質問で、面倒な気まずさを感じさせてしまったのかもしれないわ……)
エカテリーナの胸には、じわじわと寂しさと後悔が広がっていた。
そんなある日、ギルバートは執務室で、エカテリーナの元夫であるジュリアスに関する噂を耳にした。
なんでも、エカテリーナと別れてからのジュリアスはすっかり荒れ果て、連日酒浸りの生活を送っているという。エカテリーナに会って話がしたいとしきりに言ってるそうだ。
周囲の人間もジュリアスの素行の悪さを知っているため、誰も相手にしていないようだが――愛するエカテリーナに再び関わろうとしていること自体、ギルバートの許しがたい怒りを煽っていた。
そんなピリついた空気が漂う中、側近のリチャードが慌てた様子で執務室に飛び込んできた。
「ギルバート様、一大事です! エカテリーナ様に会うと言って、あのジュリアス・ハワードが屋敷まで押しかけてきまして……! 奥様の身に関わることですので、すぐにお伝えせねばと思いまして」
「……ジュリアスが、我が屋敷にだと?」
ギルバートの瞳に、氷点下の殺気が宿った。
リチャードは息を呑みつつ、言葉を続ける。
「すぐに、 護衛のガワンが追い払ったので、ご安心ください。それより、侯爵様……奥様は数日間にわたって侯爵様がお帰りにならないことを、ひどく心配されていました。侯爵様がいない間、ずっと寂しそうにしていらっしゃいます」
そのリチャードの何気ない一言に、ギルバートの胸が激しく撃ち抜かれた。
(――カティが、俺がいないと寂しがっていた……?)
仕事の忙しさや気まずさにかこつけて、彼女を一人で放置していた自分を激しく後悔した。ジュリアスのようなクズ男が屋敷の近くに現れたと知ればなおさら、一刻も早く彼女のそばに戻らなければならない。
「リチャード、残りの書類はあと回しだ。俺は今すぐ屋敷に戻る」
ギルバートは上着をひっつかむと、執務室を飛び出した。
息を切らしてレイヴン侯爵邸に戻ったギルバートを、エカテリーナはいつもの柔らかい笑顔で出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、ギルバート様」
その無事な姿を見た瞬間、ギルバートは抑えきれなくなった感情のままに、エカテリーナを強く、しっかりと抱きしめた。
「っ……! ギルバート様……?」
「すまない、カティ……! 大丈夫だったか!? ジュリアスが、この屋敷を訪ねてきたと聞いた。あなたに何かあったらと思うと、気が気じゃなくて……」
心配そうに震える夫の腕の中で、エカテリーナはきょとんとした後、ふわりと優しい笑みを浮かべた。
「ふふ、ご心配いりませんよ。私は何も対応していませんし、そもそもこのお屋敷にはガワンさんをはじめ、腕の立つ護衛の皆様がたくさんいらっしゃいますもの。ちゃんと私のこと守ってくださいましたから、大丈夫ですよ」
気丈に微笑む妻を抱きしめながら、ギルバートは強く歯を噛み締めた。
「……俺が不在にしたばかりに、あなたをこんな危険な目に……本当にすまない」
「いいんですよ。ギルバート様は旅行のしわ寄せでお忙しいんですものね。ここ数日、お戻りになってもすぐに別室で休まれていらしたし……本当にお疲れでしょう?」
すべてを察しているかのように優しく労わるエカテリーナの言葉に、ギルバートは言葉を失った。自分勝手に逃げていただけだとは、口が裂けても言えなかった。
その夜。
久しぶりに一緒に取った夕食のあと、ふたりは自然な流れで同じ寝室へと向かった。
ベッドに潜り込むと、ギルバートはためらうことなく、エカテリーナを背後からしっかりと腕の中に閉じ込めた。逃がさないように、包み込むように。
「ギルバート様……?」
「……カティに何かあったらと思うと、本当に心配だったんだ」
耳元で低く囁かれる甘く切実な声に、エカテリーナの心臓が激しく跳ねる。
(こんなにも私のことを心配してくださって……)
頭では「恩人だから」「演技だから」と何度も言い聞かせているのに、今夜の彼の腕の中はあまりにも温かくて、愛おしさに満ちていた。
(ドキドキしてしまうわ……。わかってる、これは全部、恩義からくる優しさなんだって――それなのに)
嬉しさが胸いっぱいに広がり、目頭が熱くなる。
(このままずっと時間が止まってしまえばいいのに……。いつか終わってしまう契約だというのに、私は……)
暗闇の中で、エカテリーナはそっと目を閉じた。
胸の奥で波打つ痛みを自覚しながら、彼女は恐るような、けれど切実な思いに行き着く。
――私……ギルバート様のことが、好きなのね。
初めて自分のなかに生まれたその「恋心」を自覚してしまった瞬間、エカテリーナの目から、一粒の涙がそっとこぼれ落ちた。




