第24話
その夜。
旅行から戻れば、さすがに自分の部屋へ戻れると思っていたエカテリーナだったが、ギルバートの強引な采配により、彼の私室へと移され、広すぎるベッドに並んで潜り込むことになってしまった。
これまではギルバートが自分の部屋へ訪ねてくることはあっても、彼自身の私的な空間に足を踏み入れたのは、これが初めてだった。 アルフレッドの前では「お芝居だから」と必死に割り切り、旅の疲れもあり前夜はあっさり眠りにつけたものの――いざ、静まり返ったギルバートの自室で横になると、状況の重みが全く違ってくる。
(……えっと、これからもずっと、彼の部屋で、同じベッドで寝るということですか……?)
室内を満たしているのは、いつも彼から漂うものと同じ、落ち着いた洗練された大人の男性の匂い。視線を少し動かせば、無骨ながらも彼好みに整えられた調度品や、今まさに隣で同じ空気を吸っている彼の気配が嫌でも意識させられる。
隣から伝わってくる体温や、すぐ傍にいる彼の存在そのものに、さっきまで感じていなかった緊張がじわじわと這い上がり、心臓がうるさいほど跳ねていく。
すっかり落ち着かない様子のエカテリーナに対し、一方のギルバートは、大好きな妻が毎夜同じ空間にいるという事実だけで、内心は歓喜のあまり狂いそうになっていた。
だが、それを表に出すわけにはいかない。ギルバートは冷静を装い、しかし逃がさないと言わんばかりの低めの声で言った。
「これまでは、互いの部屋を分けていたが……本来、仲の睦まじい夫婦であれば寝室は一つだ。貴族のしきたりとしても、それが自然だろう」
その言葉に、エカテリーナは「なるほど……」と内心で納得しかけた。
(……そうよね。寝室を共にするということは、少なくとも私以外の女性を妻のように扱うつもりはない、という意思表示でもある。貴族社会では、そういう意味を持つはずだけど……)
前夫であるジュリアスとの結婚生活はどうだったか。
初めから寝室は別々だった。ジュリアスからは、指一本触れられなかった。おまけに「女性を部屋に招くこともある」と平然と言い放たれていたし、そもそも、最初から妻以外の女性を愛人として囲うつもりの貴族たちは、妻と寝室を分けるのが当たり前だった。
エカテリーナは、隣で静かに目を閉じるギルバートの横顔をそっと盗み見た。
(……でも……どうして最近のギルバート様は、こんなにも私に触れてくるのかしら……? いくらお芝居や恩返しだとしても、少し過剰すぎやしないかしら……?)
ふと、以前、結婚の条件を話し合った場で、ギルバートが口にした言葉が蘇る。
――「……面倒な令嬢にしつこく言い寄られていてな。どうしても『既婚者』の身分が必要だったんだ。俺が結婚したと知れば、諦めて本来の婚約者と結婚して異国で暮らすだろう」
(そうか……!)
エカテリーナの中で、すとんと腑に落ちる感覚があった。
(きっと、その面倒なご令嬢からしつこく言い寄られるのが嫌で、私という妻をこれでもかと溺愛しているフリをして見せつけているんだわ。『俺には愛する妻がいるから、お前の入り込む隙はない』って、その令嬢にあきらめさせるための演技なのよ……!)
そして、そのカモフラージュ相手として白羽の矢が立ったのが、かつて自分を助けてくれた「命の恩人」である私なのだ。恩返しついでに、扱いやすい契約妻として選ばれたに過ぎない。
そう考えて納得したものの、心のどこかがキュッと切なく痛む。
あんなに情熱的に抱き寄せられ、熱い体温を分け与えられたというのに――それらすべてが『完璧な演技』でしかないのだと思うと、胸の奥に冷たい寂しさが広がっていく。
その抑えきれない切なさが、エカテリーナの口を思わず滑らせた。
「あの、ギルバート様」
「ん?」
「以前、面倒なご令嬢がいらっしゃるとおっしゃっていましたよね。……その方は、今はどうされているのでしょうか? すでに婚約者の方と結婚されたのですか?」
突然の質問に、ギルバートは一瞬、心臓が跳ね上がった。
(――面倒なご令嬢……? ああ、そういえば、そんな適当な嘘をついたんだった……!)
そもそもあの「厄介な令嬢」という話は、エカテリーナをどうにかレイヴン侯爵家に連れ込むために、ギルバートがその場で咄嗟に作り上げた言い訳にすぎない。そんな実在するかどうかも怪しい令嬢の近況など、知るわけがなかった。
「……さあ、どうしていることやら?」
ギルバートは慌てて目を泳がせ、できる限りの冷徹な仮面をかぶってごまかした。
「そもそも、どうでもいい。興味もない」
「……そうですの?」
冷淡に切り捨てるような夫の返事に、エカテリーナはふう、と小さく息をついた。そして、まっすぐな瞳をギルバートに向ける。
「……ギルバート様。正直に申し上げて、あなたは世間でも指折りのモテるお方です。侯爵家当主で、騎士団の英雄で、お顔だってもちろん端麗ですし……あなたを慕うご令嬢なんていくらでもいらしたはずですわ」
「……突然、なんだ」
「その中で、なぜ私だったのでしょうか?」
エカテリーナの声音には、棘も嫌味もなく、ただ純粋な疑問と、どこか自虐的な諦めが混じっていた。
「私なんかより、もっと家柄が高くて、美しくて、あなたと釣り合う素敵なご令嬢はたくさんいるはずです。面倒なご令嬢をあきらめさせるためだけなら、ご自身が良いと思う方を選んで結婚すればよかったのではありませんか? 何も、一度離婚して行き場のない私である必要なんて、どこにもなかったはずだわ」
ギルバートの呼吸が、わずかに止まる。
心臓がどくりと重く鳴った。
「やはり……あなたは、誰とも結婚したくないのですか? 誰のことも愛したくないから、執着されない相手がよかったのでしょうか」
「私なら、利害が一致するとおっしゃった。一番都合がいいと」
結婚そのものが面倒臭いからこそ、世間から「傷物」と蔑まれていた自分をあえて選んだのだろうか――。
そう静かに問うエカテリーナの瞳は、どこか哀愁を帯びていて、ギルバートの胸を激しく締めつけた。
(違う……! そうじゃない、カティ……!)
喉まで出かかけた「あなた以外なんて考えられなかった」「十歳のときからずっと、あなただけを愛している」という真実を、ギルバートは必死の思いで飲み込んだ。
まだだ。
自分が抱えてきた十三年の執着を今ここでぶつければ、彼女は驚き、恐怖し、そして――自分の前から逃げ出してしまうかもしれない。
何より、彼女はまだ「二年で離婚する」という契約の呪縛の中にいるのだから。
押し寄せる絶望と焦燥感を押し隠し、ギルバートは冷徹な騎士の仮面を貼り付けたまま、言い放つしかできなかった。
「……あなたが、俺の命の恩人だからだ」
その言葉が、どれほど自分の首を絞めることかも知らずに。
同じベッドの中にいるというのに、ふたりは互いに背を向けて眠りにつく。
ギルバートは、手を伸ばせばすぐそこにエカテリーナがいるというのに、まともに抱きしめることもできない自分の不甲斐なさに歯がゆい思いを噛り締めていた。
そして、エカテリーナも同じだった。
ギルバートが自分に対して抱いているのは恩義だけで、恋愛感情など微塵もない――それは最初から分かっていたはずなのに。
結婚式でのキスも、日常の甘い抱擁も、すべては「面倒な令嬢」を諦めさせるための徹底した演技。
そう理解しているはずなのに、彼の手が触れるたび、心臓は跳ね上がり、呼吸さえ乱れてしまう。
彼が誰のことも愛さないと知って、なぜか胸の奥が痛くてたまらない。
(……私、どうしてこんなに苦しいのかしら)
私に残された時間は、あと二年しかないというのに。 そのときが来れば、この命も彼との契約もすべて終わりを迎える。死にゆく者が、最初から分かっていたはずの「愛されない現実」に、今さらこうして心をかき乱されるなんて。
(……せめて、この二年の記憶だけでも、私の最期の宝物にできたらいいのに)
背を向けて眠る彼の背中を、ただ静かに見つめる。 たとえすべてが演技なのだとしても、ほんの一瞬でいいから――こちらを向いて、その腕の中に引き寄せられたいと思ってしまう。
そんな、決して叶うはずのない許されない焦がれを胸の奥で必死に押し殺し、エカテリーナはただ静かに目を閉じた。
交わらない互いの願いを乗せたまま、ふたりはそれぞれの孤独な暗闇に沈んでいった。




