第2話
エカテリーナは、実家の本邸から少し離れた森の奥に佇む、古い木造の小屋のベッドに腰掛け、窓から射し込む木漏れ日をぼんやりと見つめていた。そこは広大な領地内の一角ではあったが、華やかな本邸からは距離があり、徒歩か、馬でしか辿り着くことのできない、不便な場所だった。周囲を高い木々に囲まれ、俗世の喧騒から切り離されたようなその古びた小屋こそが、今の彼女にとって唯一の隠れ家だった。
どこからか鳥のさえずりが聞こえる。胸に去来したのは、悲しみよりも、不思議なほどの深い安堵だった。
――ああ、やっと。私、離婚したんだわ。
ハワード家での結婚生活は、息が詰まるような地獄だった。
もともとヴェルツ子爵家はかつて名門として知られている家柄だった。
しかし、エカテリーナが王立高等部を卒業して二十一歳になった頃、長く病に伏していた実母マリアが亡くなった。これがすべての狂い始めだった。
母が亡くなった途端、父・ロバートは後妻を迎え入れ、その連れ子である義妹たちが家に入り込んできた。
後妻とその娘たちは、我が物顔で贅沢に浸り、湯水のごとくお金を浪費した。夜会に明け暮れ、高価なドレスや宝石を買い漁る彼女たちのせいで、ヴェルツ家はあっという間に経営難に陥っていった。
そんな中で、エカテリーナはいつの間にか「使用人代わり」として扱われ、埃まみれになって働かされていた。エカテリーナの自室は連れ子たちに奪われ、物置のような粗末な一室で肩を狭めて暮らすしかなかった。
そんな地獄のような日々の中で、たった一つの救いは、年の離れた弟・アランの存在だった。
アランは跡取り息子として父や後妻たちから手厚く扱われていたが、決して傲るような子供ではなく、冷遇される姉であるエカテリーナを心から慕い、いつも陰ながら心配してくれていた。アランの優しい笑顔を見るたび、エカテリーナはどれほど救われたことだろう。
あれは三年前のことだ。
後妻たちが派手に遊び回ったせいでいよいよ首の回らなくなっていたころ、新興の成金貴族であるハワード家の跡取り・ジュリアスが、突然エカテリーナに求婚してきた。
――一体どうして、私と?
当時のジュリアスは、「君の笑顔が愛おしい」「ずっと、好きだったんだ」と熱心に口説いてきた。だが今思えば、新興の成金貴族であるハワード家にとって、自分たちの下品さを隠すための「名門子爵家の血筋」というブランドが喉から手が出るほど欲しかっただけなのだろう。
そして、金に困り切っていた父は、家の再建資金と引き換えに、まるで売るようにエカテリーナをハワード家へ嫁がせたのだった。
だが、結婚当初こそ猫をかぶっていたジュリアスは、すぐに本性を現した。ギャンブルや娼館通いに明け暮れ、エカテリーナを蔑ろにした。ハワード家の見栄のために王宮の夜会へ連れ出されるときは立派なドレスを着せられるが、屋敷に戻ればその装飾品すら剥ぎ取られ、お気に入りの娼婦へのプレゼントにされてしまう。
おまけに、夫婦としての営みは一切なく、彼女に指一本触れようともしなかった。夫から女性として見られたことなど一度もなく、ただ冷遇されるだけの毎日に心身をすり減らしたエカテリーナに、やがて原因不明の病が発症した。
夫は妻の病状になど一切興味がなく、主治医に告げられたのは冷酷な宣告だった。
――このままでは、あなたの命は持ってあと二年ほどかもしれません。
(――それなら、こんな息の詰まる場所で命をすり減らして死ぬのは、もうまっぴらだ)
主治医には、自身の余命をジュリアスたちには秘密にしてほしいと頼み込んだ。彼らには余計なことを伝えず、ただ綺麗さっぱり別れてほしかったからだ。どうせ実家に戻っても、後妻たちが待ち構える屋敷には居場所などない。
それならと、彼女は自ら離縁を切り出し、戻ったその足でこの古びた小屋に身を寄せたのだった。
「やっぱり、ここが一番落ち着くわ……」
贅沢品など何もない、ただ静かで狭いだけの部屋。しかし、誰にも怒鳴られず、冷酷な視線を向けられないこの場所こそが、今のエカテリーナにとってのパラダイスだった。
このままこの小屋で、誰にも知られず、ひっそりと穏やかに余命を過ごす――それが彼女の望みのすべてだった。
だが、そのささやかな平穏は、思いがけない訪問者によってあっけなく破られることになる。
ある日の昼下がり、ひっそりと静まり返る小屋の扉を、荒々しく叩く音が響いた。
やってきたのは、王国最強と謳われる『聖騎士』であり、氷の侯爵と呼ばれるギルバート・レイヴンの使者だった。




