第19話
馬車を降りた二人の目の前に広がったのは、言葉を失うほどの絶景だった。
それはもはや、現実のものとは思えない世界だった。足元には透き通る翡翠色の浅瀬が広がり、水面はまるで磨き上げられた鏡のように周囲の木々と空を映し出している。水底では色鮮やかな魚たちが群れをなし、水面すれすれには、宝石の粉をまとったかのような蝶が舞い、空気には甘く爽やかな花の香りが満ちていた。
「……あ……」
エカテリーナは息を呑み、一歩、また一歩と水辺へ近づく。
「すごい……! なんて綺麗なの……まるで、絵本やお伽話の世界に迷い込んだみたい……!」
胸がいっぱいになり、思わず瞳を潤ませながら振り返ると、ギルバートが少し離れた場所で、どこか誇らしげに、そして愛おしそうに彼女を見つめていた。
「気に入ってもらえたようで何よりだ」
(ここは、俺がずっと……あなたに見せたかった場所だ)
その言葉と、穏やかに緩んだ口元に、エカテリーナの心臓がトクリと大きく鳴る。
(……どうして、この人はここまでしてくれるんだろう)
契約結婚だと、ただのビジネスパートナーだと言い聞かせてきたはずなのに。自分を気遣い、極上の景色に連れてきてくれ、そしていつも温かな眼差しを向けてくれる。
(もしかして……私を、そんなふうに思ってくれているの……?)
期待し始めている自分に気づき、エカテリーナは慌てて首を横に振った。
(馬鹿なことを考えるのはやめましょう。前の結婚であんなに傷ついて、もう二度と恋愛なんてしないって誓ったんだから……)
自分への戒めのように小さく息を吐き出した時、ギルバートが低い声で周囲に注意を促した。
「カティ、油断するなよ。ここは人の手が入っていない秘境だ。珍しい動植物も多いが、なかには荒々しい魔物や野生の生物も潜んでいる。……絶対に、俺のそばから離れないようにしてくれ」
「はい!」
返事をしたその瞬間、エカテリーナの視線の先、少し奥まった木陰の水面で、ふと眩い光が反射した。
「あっ……あそこ、何かキラキラしたものが……!」
好奇心を抑えきれず、エカテリーナが「ちょっと見てきます!」と足を一歩踏み出そうとした、その時――。
バチャン!!
静寂を切り裂くような水音とともに、水底の泥を巻き上げて、ぬらぬらと光る巨大な水蛇のような魔物が猛烈な勢いで飛び出してきた。牙を剥き出しにし、エカテリーナめがけて突進してくる。
「――危ないっ……!」
悲鳴を上げる間もなく身構えたエカテリーナの視界で、一筋の閃光が走った。
ガキィンッ!と鋭い金属音が響き、次の瞬間には魔物は鮮やかな一刀のもとに両断され、水面へと沈んでいった。
それは、ほんのコンマ数秒の出来事だった。
荒い息を吐く間もなく、ギルバートはすっとエカテリーナの前に立ちはだかり、彼女を背後に庇うようにして腕を伸ばす。
「カティ! 怪我はないか……っ!?」
切実な声音で叫び、振り返ったギルバートの瞳には、先ほどの冷静な騎士とは思えないほどの恐怖と焦燥が浮かんでいた。自分を文字通り命懸けで守ってくれたその姿を見た瞬間、エカテリーナの中で、点と点が鮮やかに繋がった。
(――やっぱり)
心臓の鼓動が、激しく胸を打つ。
エカテリーナはギルバートの背中にそっと手を伸ばし、震える声でその名を呼んだ。
「……バート?」
ピクリと、ギルバートの背中が硬直した。
「十三年前……我が領の森で道に迷い、森の小さな家の扉を叩いた、あの男の子。……あの時の男の子は、ギルバート様でしたよね?」
静まり返った水辺に、エカテリーナの問いかけだけが波紋のように広がっていく。
ギルバートはゆっくりと振り返り、観念したように、深く、そしてどこか切なげに息を吐き出した。
「……ああ、そうだ」
隠し通すことを諦めたその瞳は、少年時代の面影をそのまま宿したように、真っ直ぐで、熱かった。
「あの時、俺を……あなたが救ってくれたんだ。ずっと、忘れたことなどなかった」




