第12話
屋敷に戻った夜。ギルバートは朝の言葉通り仕事で多忙を極めているらしく、今夜の夕食はエカテリーナ一人で静かにとった。
食後、自室のソファでゆっくりとくつろいでいると、ふと、廊下側から使用人たちの慌ただしい足音が聞こえてくる。バタバタとドレスの裾を揺らしながら控える者たちの気配に、エカテリーナはまもなく主人が戻るのだと察した。
――ギルバートの帰宅だ。
今日は、森の家へ行くために馬車を出してもらっただけでなく、同行してくれたガワンやシビルともすっかり仲良くなることができた。久しぶりに心が弾むような、充実した一日だった。
――その楽しかった思い出や、感謝を直接伝えたい。
そう思ったエカテリーナは、足早に自室を出て廊下へと向かい、帰宅したギルバートの出迎えをした。
「ギルバート様。今日は本当にありがとうございました。ガワンさんやシビルさんとも楽しくお話しできましたし、おかげで大切な荷物もすべて持って帰ることができました」
声をかけると、ギルバートはわずかに目を見張り、それから心底ほっとしたような表情を浮かべた。
「ああ……無事に戻ったか」
ホッと息をついたその横顔には、まるでエカテリーナがどこかへ消えてしまうのではないかと怯えていたかのような、切なさと深い安堵の色がほんの一瞬だけ浮かんだ。
だが、ギルバートはすぐにわざとらしく視線を外し、ぶっきらぼうに言い捨てる。
「……その、あまり無理をされても困る。何かトラブルに巻き込まれたら、こちらとしても面倒だからな」
冷淡なトーンを装おうとしたものの、どこか優しさが滲んでしまうその不器用さに、エカテリーナが「すみませんでした、気をつけます」と苦笑交じりに頭を下げると、ギルバートはわずかに耳を赤くしながら「……わかってくれればいい」とそっぽを向くのだった。
それからも、エカテリーナの毎日は夢のように満たされていた。
毎日、ギルバートが用意してくれた極上のドレスに身を包み、眩いほどの宝石をまとう。食卓にはエカテリーナの好きな料理が並び、屋敷のあちこちには彼女の好む花がさりげなく飾られている。至れり尽くせりの日々だった。
多忙なギルバートであっても、よほどの例外がない限り、朝と夕の食事は必ず一緒に卓を囲んでくれた。毎朝の送り出しも、帰宅時の出迎えも、偽りの「仲の良い夫婦」を演じるための契約のはずなのに、ふたりの間にはいつしか穏やかな時間が流れていた。
――そんな温かな日常を過ごすたび、エカテリーナの脳裏には、どうしても思い出さざるを得ない過去の記憶が蘇ってくる。
前夫であるジュリアスとの結婚生活。
はじめの頃こそ、ふたりで並んで食事をとることもあった。だが、それはほんの最初だけで、気づけばジュリアスは家に寄り付かなくなり、数日、時には数週間も姿を消すことが当たり前になっていった。
そして、義父が亡くなったあとのこと――義母であるレイチェルが屋敷の実権を握ってから、エカテリーナの地獄が始まった。
貴族の妻でありながら、エカテリーナに与えられた役割は「屋敷の下働き」だった。
泥のように重い掃除用具を持たされ、朝から晩まで冷たい水で重労働を強いられる。少しでも手が遅れればレイチェルから冷酷な言葉を浴びせられ、どれほど体調を崩しても、一言の労いすらももらえない。屋敷の誰もがエカテリーナを蔑み、モノのように扱った。
――そして、最も絶望的だったのは、夫であるジュリアスの態度だった。
目の前で自分の母親が妻をどれほどひどく扱っていようとも、ジュリアスはまるで透明な空気を見るかのように、冷淡な視線を一瞥くれるだけで、ただの一度も庇ってはくれなかった。愛されていないことなんてわかっていた。けれど、人間扱いすらされない絶望の中で、エカテリーナの心と身体は少しずつ、音を立ててすり潰されていったのだ。
(私はあの家で、ただ息を殺して、使い潰されるのを待っていただけだったんだわ……)
ふと、胸の奥が冷たく引きつりそうになり、エカテリーナは慌てて首を振る。
いま、目の前にあるのはまったく違う現実だ。
「政略結婚だ」と、いくらあの人が冷たく言い張ろうとも。
いま自分のいる場所には、あの地獄のような冷たさはどこにもない。信じられないほど温かく、ただただ穏やかな時間が流れている。
(あんなに私を苦しめていたあの発作も、ここに来てから……驚くほど、一度も起きていないわ)
胸の動悸も、息苦しさも、嘘のように消え去っている。
ギルバートがくれたこの穏やかな日々を噛みしめながら、エカテリーナはそっと胸元に手を当て、あたたかな安堵に瞳を潤ませるのだった。




