第10話
翌朝。目を覚ましたエカテリーナを待ち受けていたのは、驚くほど手厚いお世話だった。
朝の身支度では、メイドたちが手際よく新しいドレスを選び、丁寧に髪を整えてくれる。形だけの政略結婚のはずなのに、まるで本物の大切な妻のような待遇に、エカテリーナは戸惑いながらも「侯爵様は、夫婦としての体裁を完璧に整えるためにここまでしてくれているのね」と一人で納得していた。部屋に用意された大量の新しい衣装も、「すべて侯爵様のご命令です」と告げられ、ギルバートの気遣いの細やかさに感心するばかりだ。
身支度を整えて食堂へと向かうと、そこにはすでにギルバートの姿があった。扉を開けたエカテリーナを見るなり、彼はわずかに息を呑み、慌てて手元のカップに視線を戻す。
「……おはよう、カティ」
低く硬い声で告げられたそのいつも通りの態度に、エカテリーナも「ギルバート様、おはようございます」と落ち着いた声で返して席についた。
目の前に並んだ朝食は、今日も今日とて目を丸くするほど豪華だった。しかも、驚いたことに、エカテリーナが大好きな果物がこれでもかと皿に盛られている。
食事の途中、ギルバートが紅茶を飲みながら言った。
「今日は、俺は仕事で帰りが遅くなる。夕食は気にせず、先に休んでくれ」
「ありがとうございます、ギルバート様」
素直に頷いたあと、エカテリーナはふと思い出し、おそるおそる切り出した。
「あの、ギルバート様。お願いがあるのですが……今日、少しだけ以前暮らしていた森の家へ行ってもいいですか? まだ置いてある荷物を取りに行きたくて。夕方には戻りますから」
瞬間、ギルバートの手がぴたりと止まった。
「……では、付き人をつけるから、必ず馬車で行くようにしてくれ」
「えっ? 私、自分の荷物を少し取ってくるだけですし、一人でも十分——」
「ダメだ。どうせそこらの乗り合い馬車で行くつもりだろう」
「うっ……そのつもりでした……何でわかったんですか?」
「……」
ギルバートは答えず、ただ険しい顔で紅茶のカップを置いた。
(そっか……妻がひとりで乗り合い馬車になんて乗ったら、侯爵家の品位にかかわるものね)
エカテリーナが勝手に一人で納得していると、そこへ、そばに控えていた側近のリチャードが絶妙なタイミングで新しいお茶を差し出しながら、穏やかな笑みで口を挟む。
「奥様。侯爵様のご意志を汲み取っていただけますと幸いです。奥様は侯爵様にとって大切な方なのですから。何かあってからでは、侯爵様がどうなってしまうか……」
「リチャード。余計なことを言うな」
ギルバートがギロリと鋭い視線を向け、わずかに耳たぶを赤くして低く威圧する。しかし、リチャードはまったく動じない。
「事実でございます。どうか奥様、侯爵様のこの過剰なまでのご心配を、どうかご理解くださいませ」
「あ、ありがとうございます……(なるほど! ギルバート様も、良き妻想いの夫を演じているのね。大変だわ)」
エカテリーナが再び勝手に納得していると、ギルバートは気まずそうに視線をそらし、立ち上がった。
「……じゃあ、仕事に行ってくる。くれぐれも、一人で出歩かないと約束してくれ」
その声音には、いつもの冷徹な侯爵としての威厳だけでなく、どこか必死に懇願するような、年下の少年のような脆さがほんの少しだけ垣間見えた気がした。甘えるような、けれど頑なに拒絶を許さないその瞳に気圧され、エカテリーナは思わず頷く。
「……わかりました。約束します」
「……あぁ、そうしてくれ」
満足したのか、ギルバートはふっと表情を緩め、食堂の扉へ向けて歩き出す。だが、部屋を出る直前、振り返ってこう言い残した。
「そうだ、カティはいちごと桃が好きだろう。たくさん食べてくれ。では、行ってくる」
それだけ告げると、ギルバートは颯爽と食堂を去っていった。
残されたエカテリーナは、テーブルの上の色鮮やかな果物を眺めながら、ぽかんと口を開けて固まっていた。
(――どうして私が、いちごと桃が大好物だなんて知っていたのかしら……?)
不思議さと小さな動揺を胸に抱きながらも、部屋に漂う甘い香りに包まれ、エカテリーナは複雑に思考を巡らせるのだった。




