第9話
新居での慌ただしい初日を終え、夜の帳が降りる頃。
エカテリーナは、あてがわれた自室のふかふかしすぎるベッドにゴロンと横たわり、天井を見上げて大きく息をついていた。
(……すごいお部屋よね。こんなフカフカのベッド、今まで寝たことないわ……)
本当に、目まぐるしい日々だった。前夫との苦しい離婚、そして急な求婚からの再婚。あの豪華すぎる挙式。そして、馬車の中で言い訳をされたとはいえ、脳裏に焼き付いて離れないあのキス。思い出すだけで、熱が頬にのぼってくる。
ふと、元夫であるジュリアスとの結婚式の記憶が脳裏をかすめる。当時は、自分を愛してると言ってくれる彼と結婚できたことが純粋に嬉しかった。そういえば、ジュリアスからの誓いのキスはなかったわね。ジュリアスたちは見栄っ張りだったから、結婚式の衣装もそれなりのものを着せてもらった記憶はあるけれど――今回は、それの比ではなかった。本物のレース、圧倒的な宝石の輝き、そして聖堂を埋め尽くす参列者たちの熱気。
(これが、レイヴン侯爵家の力、なのね……)
実は、前夫であるジュリアスとの間には、夫婦としての営みは一切なかった。彼は、結婚後もエカテリーナに指一本触れようともしなかった。それだけでも十分に傷ついていたというのに、裏ではジュリアスが娼婦や愛人たちとは散々遊び歩いているという噂を耳にするたび、エカテリーナは「自分は妻として、女として、そこまで価値がないのか」と、より一層深く胸を痛め、すり減らしていくしかなかったのだ。
だからこそ、ギルバートとのキスは、エカテリーナにとって初めて知る温もりだった。
(あんな風に胸が跳ねたのは、一体どうしてかしら……)
そういえば……と、胸の奥でひっそりとくすぶる不穏な影に思いを馳せる。
(最近、あの発作が全然起きないわね……)
一応、医師からは専用の薬を処方してもらってきている。いざとなれば、それを飲めばきっと大丈夫。だけど――発作が頻繁に起こるようになると、いよいよ「死期が近い」と医者は言っていた。
(まあ、いいわ。あと二年あるんだし、まだ先のことでしょ)
どこか他人事のように呑気に構えつつ、エカテリーナはゆっくりとまぶたを閉じるのだった。
――その頃。
ギルバートもまた、自室の広すぎるベッドに仰向けになっていた。
天井を見つめる彼の瞳は、先ほど挙式で交わしたキスの感触を思い出して、抑えきれない熱を帯びていた。
(……嘘みたいだ。ずっと遠くから見つめるだけで、触れることすら叶わなかった彼女が、今日から俺の妻として、同じ屋根の下にいる……)
唇には彼女の柔らかな温もりが、指先には引き寄せたときの細い腰の感触が、まだ生々しく残っている。胸の奥が甘く疼き、息が詰まるような幸福感が次から次へと押し寄せてきて、ギルバートは思わず腕で目元を覆った。
(……あんなふうに「演技だ」などと、必死に言い訳して取り繕うのが精一杯だった……)
盛大にため息をつきながら、ギルバートはガタリと枕に頭を預ける。
(政略結婚などと、もっとらしい理由を並べて……俺はいったい、何をやってるんだ)
思考は自然と、遠い過去へと遡っていく――。
思い返せば、十歳の時――。
あの森で、野獣から彼女を護れなかった自分の無力さに激しい怒りを覚え、「もっと強くならなければ彼女に並ぶ資格すらない」と必死に鍛錬を重ねた。
当時、父とともにレイヴン領を転々と移動する過酷な日々だったため、もう、エカテリーナの森の小屋へ足を運ぶことなど到底できなくなっていた。
その後も、自ら志願した魔物の討伐などに積極的に参加し力をつけていった。
王立高等学院に入学してからは学業や剣の鍛錬に追われており、自由に動ける時間は限られていた。それでも僅かな機会を得ては、遠くから彼女の暮らしぶりを見守った。再びあの小さな家の扉を叩き、声をかけようと何度思ったことか。しかし、だんだんと大人びていく彼女を遠くで見守るうちに、「いまさら昔のように気安く声をかけていいのか」と、声をかけるタイミングを完全に失っていった。
貴族のパーティーや宮中のイベントに彼女が参加すると聞きつければ、できるだけ目立たないように会場の隅へと陣取り、ただひたすらに彼女の姿を目で追い続けた。決して自分から声をかけるわけでもなく、周囲に愛想を振りまく彼女の姿に勝手に苦しみながら、気づけば何年もの月日が流れていた。
十八歳の時、ついに王国最強と謳われる『聖騎士』の称号を射止めた。そのタイミングで、ずっと胸に秘めていた想いを告げ、彼女に正式に求婚しようと固く心に決めていたのだ。
――だが、運命はそれを許さなかった。ちょうどその時期、世界各地に出没する魔物を討伐するための大規模な遠征への出陣が決まってしまったのだ。途中で引き返すことなど到底できない、数年に及ぶ過酷な任務だった。
(この討伐を成し遂げれば、侯爵としての正式な地位と実績も確実なものになる。……求婚は、この大役をすべて終わらせてからにしよう)
そう自分に言い聞かせ、ギルバートは遠征へと赴いた。
さらにその討伐の道中、伝説に謳われる『月光石』という幻の宝石があると耳にした。何としてもその石を手に入れたいと思った。深く青く輝く月光石は、まるで彼女の清らかな心のようだと感じたからだ。――その輝きを、求婚の証としてエカテリーナに捧げたかった。
だが、討伐は思いのほか長引き、その月光石を手に入れ王都に戻ったときには、ギルバートはすでに、二十歳になっていた。
(これで、やっと彼女に求婚できる……!)
喜び勇んで戻ったギルバートを待っていたのは、残酷すぎる現実だった。エカテリーナは、ハワード家のジュリアスと結婚するという。
エカテリーナに捧げるために用意したはずの月光石は、結局貰い手を失い、ただ箱の中で悲しく輝き続けることになった。
(なんでだ……?)
ジュリアスといえば、新興のハワード男爵家の跡取りで、当時からあまり良い噂を聞かない男だった。あんな奴のところに、彼女は嫁ぐというのか。
(今すぐ、彼女をあいつの手から奪い取りたい!)
そんな衝動に何度も駆られた。だが、ある日のパーティー会場で、エカテリーナがジュリアスに慈愛に満ちた笑顔を向けているのを見てしまったのだ。
その瞬間、ギルバートは思い知らされた。あぁ、彼女はあの男のことが好きなんだ、と。だからこそ、はじめから勇気のない自分の入り込む隙など微塵もなかったのだと悟り、身を引く決意をしたのだった。
それからも、夜会のたびに遠くから彼女を見つめることしかできなかった。諦めきれない自分に吐き気をもよおし、いら立ちを覚えながらも、「もう彼女を忘れるしかない」とずっと自分に言い聞かせてきたはずなのに――。
だが、なんだ?
結局のところ、エカテリーナはあの男に裏切られ、不幸のどん底に突き落とされたではないか。
傷つき、不幸になった彼女を可哀想だと同情する反面、泥のような黒い感情が胸をもたげる。
(――これが、俺にとって最後のチャンスだ)
今思えば、求婚のために、彼女のもとを訪ねたあのときに、すべてを素直に打ち明けてしまえばよかったのか?
「十歳のときから、ずっとあなたが好きでした」と。
だが、再会した彼女は、自分のことを微塵も覚えていなかった。
「レイヴン侯爵閣下、はじめまして。……エカテリーナ・ヴェルツと申します」
――はじめまして。
あのとき、心で笑うしかなかった。十三年前から自分だけが彼女を覚えていて、一方的に恋焦がれて、勝手に暴走して、勝手に振られた気になっていた男の、なんと情けないことか。
だからこそ、ギルバートは「政略結婚だ」と言うしかなかったのだ。
最初に使者を立てて求婚した際、彼女からは「結婚はもうこりごりです」と綺麗に断られていた。当たり前だ。地獄のような結婚生活からようやく解放されたばかりの彼女に、いきなり求婚の手紙など届ければ警戒されて当然だった。
だからこそ、自ら赴いたあのとき、あえて冷徹な仮面をかぶるしかなかった。
自分の過去の執着を告げれば、彼女はきっと驚き、引いてしまうだろう。それに――あんな泥沼の結婚生活を経験した直後の彼女に、初めから「愛している」などと重い感情をぶつければ、恐怖から逃げ出されてしまうかもしれない。彼女の心を開かせるには、まず安心できる「契約」という枠組みを盾にして、無理やりでも同じ屋根の下に繋ぎ止めるしかなかった……。
自分の過去の執着を知らない、自分のことを愛していない彼女と結ばれるには、そうやって「ただの利害の一致」を装うしかなかったのだ。
だが、契約はどうあれ、手に入れた。そして、彼女は「二年」と言った。
(ふざけるな。……二年の間に、絶対に離縁したいなどと言わせない。俺以外の男など二度と目に入らなくしてやる)
静かな闇の中で、ギルバートは熱を帯びた瞳を夜空に向け、誰にも聞こえない声で静かに誓うのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
今回はギルバート視点でしたが、あの最強聖騎士様が内心でここまでこじらせていたとは……ギルバート重すぎます(笑)。
ここからの二人のすれ違いも頑張って書いていきますので、引き続きお付き合いいただけますと幸いです!




