第6話 愛、情熱、魂
私はトレーを持って、角のボックス席へ向かった。
「お待たせ。新しく作り直したやつ」
ドリフトの前へ石鍋を置く。
彼女は黙って料理を見下ろした。
箸を持つ前から、さっきまでとの違いは分かる。
カルビの端は濃く焼け、タレが漆みたいに表面へまとわりついている。石鍋から立つ湯気の隙間には、内側を這うように飴色のヌルンジが見えた。
横のキュウリも、まだ光を拾うくらい鮮やかな緑色だ。
ドリフトが箸を持つ。
一口目。
二口目。
三口目――。
少し、遅くなった。
目が開く。
ほんの少し。
一ミリ……いや。
ナノ単位。
普通なら見落とすくらいの変化だった。
だが、かわいい女の子が私の作った料理を食べる瞬間だけ、私の視力は勝手に4K超高画質対応になる。
よし。
捕まえた。
人が物を噛んでいる姿を見てニヤニヤする変な料理オタクだと思われる前に、私は厨房へ戻ろうとした。
「あっ! レインちゃん嬉しそう!」
背後でフラッシュが光る。
シャッター音まで、やたら主張が激しい。
「撮れた! これファン絶対死ぬって!」
私は横目だけで様子を確認した。
あくまで何でもありませんよ、という顔で。
猫じゃらしを目の前で振られているのに、興味ありませんけど? と必死に装う猫くらい自然に。
ロッテは隠す気すらなかった。
スマホを両手で構えたまま、勝利を確信した顔でぷるぷるしている。
ならこちらも負けられない。
私は完全に成長した、大人の、余裕ある猫である。
決して臆病な子猫ではない。
そういう気持ちで歩く速度を少し落とし、わざと何でもない風にその場を離れた。
「プリクラースナ……」
ソフィアが深く息を吐き、座席へ背を預けた。
そのまま手を伸ばし、ドリフトの頭をぽん、ぽん、と何度か撫でる。
手の届くところに小さくてかわいい生き物を見つけたみたいな撫で方だった。
「頭痛が治ってきたわ。そのまま食べていなさい」
なるほど。
この人も、かわいい女の子が幸せそうに飯を食う姿の良さを分かっている。
同志だったか。
「待て」
ドッツァの鼻がひくっと動いた。
「そんなに美味いの?」
テーブルへ身を乗り出す。
箸が一番近いカルビへ飛ぶ。
「一個だけ――」
カチンッ!
ドリフトの手が動いた。
本人は石鍋から一度も目を離していない。
それなのに箸だけが正確にドッツァの箸を叩き落とし、宙へ弾いた。
床に転がる金属音。
あの精度なら、たぶんハエも取れる。
「おい! 今の普通に失礼だろ!」
ドリフトは完全無視。
もう一口食べる。
噛む。
飲み込む。
そしてようやく顔を上げた。
店内をゆっくり見回す。
視線が止まる。
私だった。
私は厨房の入口まであと半歩。
片手はもうドア枠へ伸びている。
逃げられる距離。
見てませんでしたよ、と誤魔化せる距離。
でも、少し遅かった。
「待って」
大きな声ではない。
でも、自分に向けられた言葉だとすぐ分かった。
「はい?」
私はドア枠へ手を置いたまま振り返る。
ドリフトは片手を上げた。
授業中、先生へ質問する生徒みたいに妙に行儀がいい。
後ろではファンたちが、何をしているのか分からない顔で見守っている。
「店員さん」
ドリフトが真顔で言った。
「これ、誰が作ったの?」
「私」
今すぐ勝ち誇った笑みを浮かべたい衝動を、全力で押し込める。
代わりに、模範的な店員らしい営業スマイルを作った。
「何をしたら――」
ドンッ。
窓が震えた。
地震じゃない。
数ブロック先の工事現場にある杭打ち機でもない。
音より先に、床から振動が来た。
靴底を通して脚へ上がってくる。
大きい。
二ブロックくらい先。
しかも速い。
この感覚は知っている。
B.O.X.だ。
ブースターも使っていない。
ローラーダッシャーですらない。
全力で走っている。
店の外で、ファンたちのざわめきが一気に崩れた。
「おい! 通りの先見ろ!」
「B.O.X.来てる!」
「改造機じゃん! 無法者?」
「違う違う! 装備見ろよ! 迷惑配信系のやつだ!」
「今、消火栓ぶっ壊したぞ!」
少し離れた場所で、水柱が上がる。
その一秒後。
外の連中が歓声を上げた。
まるで午後の予定表に『近所の公共物が破壊される』まで最初から組み込まれていたみたいだ。
まあ。
アメリカだし。
テレビの中の娯楽が、そのまま家の窓の前までやってきた時。
普通なら逃げる。
ここの人間は前列を取りに行く。
危険かどうかなんて関係ない。
むしろ危険なら警察も来る。
さらに話が大きくなれば、巨大ロボ同士の喧嘩まで特等席で見られる。
完全にイベント扱いだった。
角のボックス席では、ロッテがもう立っていた。
目が妙に輝いている。
あの目は知っている。
本人以外の予定が、全員への相談なしで今この瞬間にキャンセルされた目だ。
「これ最高じゃん!」
ロッテがドリフトへ振り向く。
「レインちゃん、出るよ! 今、外の光めっちゃいい!」
もうスマホを構えている。
「見出しまで浮かんだ! 『ヴァナディスのエース、昼飯中断して迷惑配信者をぶっ飛ばす!』――絶対伸びるって!」
ドリフトは石鍋を見る。
「まだ食べ終わってない」
「分かってる分かってる! でも今出れば警察来る前に捕まえられるから! 警察来たら全部つまんなくなるじゃん!」
ドンッ!
今度は窓全体がたわんだ。
何人かの客が反射的にテーブルの下へ潜る。
空砲。
B.O.X.搭載型のショットガンだ。
直後に機械式の装填音が聞こえた。
弾体は飛んでいない。
何にも当たっていない。
ただ、大音量だけをぶつけるための空砲。
一般人を驚かせるか。
あるいは配信を盛り上げるため。
典型的なガレージ改造機だ。
怖いのは音じゃない。
次の一発も空砲だと、誰にも分からないことだ。
「ほらほらほら! 行くよ!」
ロッテがドリフトの腕を両手で掴んで引っ張る。
ドリフトは抵抗していない。
問題はそこじゃない。
ロッテの筋力では、座っているドリフトを一ミリも動かせないのだ。
厚底スニーカーが床でキュッと鳴る。
ロッテの身体だけが後ろへ傾いていく。
ドリフトは座ったまま。
「レインちゃーん!」
「食べてる」
「あとで食べればいいじゃん! もっといっぱい! 十人前でも!」
ドリフトの動きが止まった。
石鍋を見る。
信じられない判決を言い渡された被告みたいな顔で、しばらく料理を見つめる。
そしてドッツァへ向いた。
「ロッテはよく嘘をつく。ドッツァ、本当?」
「なんであたしに聞くんだよ」
ドッツァは露骨に嫌そうな顔をした。
「でもお前が行ったら、あたしまで行くことになるから。できれば行くな」
「ドッツァ黙って!」
ロッテが吠える。
すぐドリフトへ向き直った。
「本当本当! 超本当! 今日は一切盛ってない!」
ドリフトが今度は私を見る。
「店員さん。本当?」
「え?」
急に振られた。
「まあ……お金払うなら」
ドリフトはすぐソフィアを見る。
「ソフィア。いい?」
ソフィアが鼻筋をつまんだ。
深く。
とても深く。
何年も溜め込んでいた疲労を、ようやく一回だけ外へ逃がしたみたいなため息だった。
「ダー。イディ。トーリカ・ニチェヴォ・ニ・ロマーイ」
ドリフトがソフィアを見る。
「ソフィア」
「何?」
「今の分からない」
ソフィアは目を閉じたまま、手だけで出口を指す。
「……行きなさい。何も壊さないで」
「分かった」
ドリフトが立ち上がる。
「ロッテ」
ソフィアが続ける。
まだ目は閉じたまま。
「この子に『何も』の意味をちゃんと理解させて」
「イエス、マーム!」
ロッテはもう後ろ向きに出口へ進みながら撮影している。
「ドッツァ! 装備! ドリフトちゃん出る前にドローン上げるよ!」
ドッツァはもっと早く動いていた。
残念ながら。
方向が違った。
すでにドリフトの空いた席へ滑り込み、残されたカルビへそろそろと箸を伸ばしている。
爆弾を解体する技術者みたいな慎重さだ。
ただし、この技術者は爆弾を処理するのではなく、自分で爆発させる気満々である。
「はいはい、今行くって」
ドリフトの腕が後ろへ伸びた。
カチッ。
箸がドッツァの箸を押さえつける。
テーブルへ完全固定。
「私の肉、食べないで」
ドッツァが押さえ込まれた自分の箸を見る。
ソフィアがドリフトを見る。
「空腹の人間をいじめるの?」
「私の」
「あとで十人前来るでしょ!」
「まだ来てない」
「来る予定だろ!」
ドリフトは何も答えない。
代わりにドッツァの箸をそのまま奪った。
そして。
ドッツァの皿に残っていた最後の一枚を、自分の口へ入れる。
一連の動きに無駄がない。
「お前が食うんかよ!」
ドッツァの悲鳴が店中に響く。
「……私の」
ドリフトは肉を頬張ったまま言った。
「ドッツァ」
ソフィアの声が落ちる。
低い。
平坦。
最終決定。
たぶん会議室でも裁判所でも、国境の入国審査でも、この声で話を終わらせてきた。
「装備」
「はいはいはい!」
ドッツァがものすごく長いため息をつく。
「どうせ誰もあたしが餓死しても気にしないんだろ」
かわいそうに。
少しだけ同情した。
「お姉さん」
私は声をかける。
「外の騒ぎ止めてくれるなら、一人前サービスするよ」
「マジ!?」
ドッツァの目が一瞬で輝いた。
さっきまで死刑台へ向かう囚人みたいだったのに、最後の晩餐を追加された途端に元気になる。
円筒形のギアバッグを掴み、ロッテのあとを追った。
三人が動いた瞬間。
店内が爆発した。
ファンが一斉に立ち上がる。
スマホがきらきらと宙へ上がる。
椅子が床を擦る音。
途中まで飲んでいたドリンクまで、その場へ置き去りだ。
「サービス分、リリアンの給料から引くからねー」
カウンターの向こうから、ディーの優しい声が飛んできた。
小売業に真の慈善など存在しない。
「はいはい……」
私は小さく返事をする。
ファンたちは出口へ殺到しようとしていた。
ディーがカウンター横に立つ。
両手を上げる。
笑顔。
危険なくらい丁寧な笑顔だ。
「会計せずに外出た人、壁に打ち付けるからねー!」
静まった。
どの壁なのか。
何を使って。
どういう状態で打ち付けられるのか。
誰も知らない。
だから余計に怖かった。
外へ行きたい客たちが、慌てて伝票を要求し始める。
諦めた連中は自分の席へ戻り、急いでスマホからハントキャストを開いた。
道路へ出られないなら、店の中から配信を見る。
それでも十分らしい。
ドリフトは入口まで行った。
そこで止まった。
ロッテとドッツァはもう外にいる。
入口周辺のファンをどかし、彼女が通る場所を作っていた。
だがドリフトは出ない。
くるっと振り返る。
そのまま厨房のほうへ戻ってきた。
私の真正面まで来る。
止まる。
そして、そのまま立っていた。
近くで見ると。
やっぱり綺麗だ。
いや。
腹が立つくらい綺麗だ。
距離が縮まるほど、無視しづらくなるタイプの顔だった。
ただ、今は今まで見たことのない表情をしている。
視線が少し横へ逃げる。
唇が動く。
止まる。
また動く。
言葉が出口まで辿り着けず、途中で引っかかっているみたいだった。
戦いに行く前に、『無事を祈ってくれ』とか言う顔ではない。
違う。
この女は。
ただ思い出したのだ。
やり残したことを。
もっと正確に言えば。
食べ残したことを。
ドリフトが両手を上げた。
私の目の前で、指を十本全部開く。
「十」
「……オカフォーズ火曜限定カルビ定食を十人前?」
「違う」
さっき自分が食べていた石鍋を指差す。
「あなたが持ってきたやつ。あれを十個」
「セットごと?」
「肉だけでもいい」
少し考える。
「でも、ご飯も美味しかった。ああいうのは初めて食べた」
そこで一度止まった。
「あと、ソフィアにもっと野菜を食べろと言われてる」
「じゃあセットごとね」
私は笑いそうになるのを抑えた。
「十個、本当に食べられる?」
「分からない。やったことない」
半秒ほど考える。
「でも、できると思う」
無理だった。
笑った。
「分かった。戻ってきたら一個ずつ作るよ。一個食べ終わったら次」
指を立てる。
「残すのは禁止ね。食べ物は無駄にしない」
ドリフトが一度頷いた。
正式な契約内容でも記憶したみたいな顔だ。
「待ってて」
「料理ならちゃんと残しておくよ」
まだ見ている。
どうやら不正解だったらしい。
「……何?」
「『帰ってくるまで待ってる』って言って」
また笑いそうになる。
いや。
笑った。
「はいはい。帰ってくるまで待ってるよ」
ドリフトが頷く。
何かが変わった。
ほんの少し。
どこが変わったのか説明はできない。
ただ。
今のが正解だったらしい。
ドリフトが出口へ向く。
そして。
もう一度、変わった。
今度は分かる。
肩が落ち着く。
歩幅が整う。
さっきまであった目元の柔らかさが消えた。
冷たい。
正確。
迷いがない。
あの切り替わりを、私は知っている。
コックピットへ向かう仲間たちの背中で、何度も見た。
その背中を。
二度と見なかったこともある。
思考が、面倒なくらいドラマチックな方向へ行きかけた、その時。
「待って待って待ってー!」
ロッテが入口から飛び込んできた。
スマホだけは完璧に水平。
「早歩き禁止! 必死っぽく見える! カッコよく歩いて!」
ドリフトが片足を上げたまま止まった。
消えた。
今までの空気が全部消えた。
地獄へでもそのまま歩いていきそうだった女が、ロッテに一声かけられただけで片足立ちになって指示待ちしている。
よし。
こっちのほうがいい。
さっきの顔は、この子には似合わない。
ドリフトは片足のまま、真剣に指示を処理している。
やがて足を下ろした。
背筋を伸ばす。
歩き始める。
左腕。
右足。
右腕。
左足。
きっちり。
正確に。
同じ角度。
同じ速度。
歩行マニュアルのお手本映像みたいな集中力だった。
新品のアンドロイドが、工場出荷前の歩行テストを受けている。
そんな感じだ。
バカだ。
なんでこんなにバカなのに、顔がいいだけでこんなにかわいく見えるんだ。
「こんな感じ?」
「違う!」
ロッテが首をぶんぶん振る。
スマホまで一緒に左右へ揺れる。
「違う違う! なんでそれがカッコいいと思ったの!?」
「カッコよく歩けと言った」
「ソフィアに怒られて、バレないように静かに逃げる時みたいに歩いて!」
「ああ」
即座に理解した。
身体の硬さが消える。
肩が少し落ちる。
顎がほんの少し下がる。
歩幅は滑らか。
一定。
力が抜けているのに、だらしなくはない。
急ぐ必要なんて一度もない。
世界のほうが自分を待つのが当然。
そんな人間に見える。
「それ! それそれ!」
ロッテが嬉しそうに叫ぶ。
「完璧! 自然! ミステリアス! ちょい感情読めない感じ! リスナーこういうの大好きだから!」
「ロッテ」
「なに?」
「笑ったほうがいい?」
「ダメ!」
「なんで?」
「それレインちゃんにはまだ早い! 口引っ張って歯見せるだけになるから!」
「分かった」
二人の声が、外の歓声に飲み込まれていった。
私は窓越しに、ドリフトが修正済みの『カッコいい歩き方』で駐車場を横切っていくのを見る。
その周りをロッテが、小さくてピンク色の衛星みたいにぐるぐる回っている。
後ろからドッツァ。
ギアバッグをずるずる引きずっていた。
気づけば、オカフォーさんが隣に立っていた。
私が彼のカルビレシピを勝手に改造したところも見ている。
ドリフトが入口で引き返してきたところも見ている。
もっと悪いことに。
さっき私が笑っていたところも、たぶん見ている。
今さら何でもない顔をしても無駄だ。
「十人前か?」
「かなりはっきり言ってましたよ」
「何を入れた?」
「愛。情熱。魂です」
オカフォーさんは、ドリフトが置いていった空の石鍋を見る。
私の秘伝の材料は完全無視された。
「あの反応、狙ってたのか?」
「気づくとは思ってました」
「十人前も?」
「そっちは病気かもしれません。私には診断できません」
オカフォーさんがしばらく私を見る。
「六か月」
「何がです?」
「お前がここで働き始めて六か月になる」
「そうですね」
「まだ、お前をどういう人間として扱えばいいのか分からん」
「気長にお願いします」
私は肩をすくめる。
「私、複雑な女なので」
オカフォーさんが何か音を出した。
笑ったようにも聞こえた。
でも次の瞬間には、食器洗浄機へラックを押し込み、フードを下ろしている。
ゴウンッ、と水と機械の音が鳴り始めた。
私はソフィアの前に残っていた空の器へ手を伸ばした。
「これ下げますね」
返事はない。
ただ。
見られていた。
ソフィアの視線が、ずっと私の顔へ向いている。
何か失敗するのを待っているみたいに。
視線の角度まで分かる。
ここで少しでも顔を上げれば。
間違いなく目が合う。
どんな顔をしているのかは分からない。
でも。
ディーの言っていたことは、もしかすると正しいかもしれない。
ソフィアが本気で怒った顔を真正面から見たら。
私、本当に漏らすかも。
私は器だけを見て、そのまま厨房へ戻った。
さて。
今度は十人前だ。
オカフォーズ火曜限定カルビ定食。
リリアン特製で。




