第5話 体験付きカルビ
店内は相変わらず満席だった。ファンたちは、午後の暑さですっかり氷の溶けた飲み物をちびちび飲みながら、そう簡単には席を譲る気がないらしい。もう食事を終えているのに、ほとんど手をつけない軽食を追加注文して居座っている連中までいる。
そこへディーが巡回していた。
「ほかに何かご注文ありますか?」
にこやかに。丁寧に。そして、かなりしつこく。
一応、ただ注文を確認しているだけだ。グラスがまだ半分残っている客を追い出そうとしているわけでもないし、失礼なことは何も言っていない。
普通の人間なら、
『まだ飲んでるので大丈夫です、ありがとう』
『このおつまみ食べ終わるまでは』
『今は大丈夫です。もう少し休んだら出ます』
それで終わる。
ところが今日のファンたちは、どうも普通の対人会話に弱かった。
半分くらいはディーの問いかけを断ることすらできず、気まずそうに会計を済ませて出ていく。すると外で待っていた別のファンが、その席へ滑り込む。
残り半分は、なぜか『何かご注文ありますか?』を『追加注文してください』という命令だと受け取って、さらに料理や飲み物を頼んでいた。
どちらに転んでも売上は増える。
ディーは彼らの対人不安を最大限に活用していた。
恐ろしい女だ。
外では、後から来た連中が窓に顔を押しつける段階を越えて、今度は窓そのものを写真に撮り始めていた。
ディーとしては、さっさと帰って普通の客を入れたいらしい。だが動く気配がないので、受け渡し口の向こうから私へ目配せしてくる。
ちょうど鉄板のカルビはタレを絡めている途中だった。今なら少し離れてもいい。
私はこんな人数の相手をしたことはないが、オカフォーさんは汗一つかいていない。十五年もこの店をやっていれば、これくらい騒がしくても背景音になるらしい。
エプロンで手を拭き、外へ出た。
「はいはい、入口から離れてー」
手を振って追い払う。
「中に友達がいるなら、席が空くまで待ってていいから。窓に顔くっつけるのはやめようね」
この店の窓は外側から見るとかなり濃く色がついている。中から外は普通に見えるが、外から中を見るのは難しい。だからファンたちは手で光を遮りながら、額だの鼻だのをガラスへ押しつけて覗き込んでいた。
別に怒っているわけじゃない。
ただ。
その結果、店の正面には脂ぎった幽霊の顔みたいな跡が大量に残っていた。
額。
鼻。
頬。
妙に生々しい。
デトロイトの道路は埃っぽい。こいつらが残した脂へ、その埃が全部貼りつく未来まで簡単に想像できた。
素晴らしい。
明日の開店前に掃除するものが、一つ増えた。
角のボックス席では、ヴァナディスの四人もすっかり落ち着いていた。
見ていると、普段どういう関係なのか何となく分かる。
ロッテは料理が来るたび、誰にも触らせる前に三方向から写真を撮る。
ドッツァは毎回それに文句を言う。そのくせ、自分の皿だけでは足りないのか、ほかの三人の料理から平然とつまみ食いする。
公平という概念を根本的に勘違いしているのか。あるいは、単純に恥というものがないのか。
ソフィアは片手で食事をしながら、もう片方の手ではずっとタブレットを操作している。ほとんど皿を見ていない。
そしてドリフトは。
ただ食べていた。
二皿目のカルビを食べ終えた頃、ディーが三皿目の注文票を持って厨房へ戻ってきた。
私は持ち場へ戻る途中でちらりと見る。
ドリフトは背筋を真っ直ぐ伸ばして座り、両手を行儀よくテーブルの上に置いて待っていた。
目の前に積まれた空皿は、綺麗な塔になっている。妙に重心が整っていて、ちょっと押したくらいでは崩れそうにない。
あれは一度や二度の技術じゃない。
たぶん、何度もやっている。
三皿目が運ばれていく。
私は手を動かしながら、何となくそちらを見ていた。
ドリフトの指が伸びる。
カルビを一枚取る。
口へ運ぶ。
噛む。
飲み込む。
次。
噛む。
飲み込む。
次。
止まらない。
表情も変わらない。
普通なら、予想より美味しいものを食べた時に無意識に出る小さな反応くらいはある。一瞬だけ目が開く。次の一口へ伸ばす手が少し止まる。ほんのわずかに身体が前へ出る。
そういうものが。
何もない。
ただ入力されたものを処理している機械みたいに食べ続ける。
……この食べ方、知ってる。
私はこれを知っている。
自分でもやっていた。
出撃の合間に栄養ペーストを流し込むパイロット。座る時間すら無駄に感じて、立ったまま飯を済ませる警備要員。長期任務に入って三か月もすると、そもそも食べ物の味を気にしなくなる奴もいた。
味わえば、もっとまともなものが欲しくなる。欲しくなっても、そんなものはない。そして余計な欲求は任務効率を落とす。
だから食事は燃料になる。
燃料に注意を払う必要なんてない。
美味いものを食わせても同じだ。
味が分からないわけじゃない。ただ、自動操縦で食べている。
口の中に何が入っているのか気づかせるには、一発ひっぱたくくらい分かりやすい刺激が必要になる。
私の目元がぴくっと動いた。
本来なら。
客がどんな食べ方をしようと、私には関係ない。
本来なら。
でも、ときどき無性に腹が立つ。
せっかくの料理を燃料みたいに口へ放り込んで、何も考えず処理している奴を見ると。
そういう時、私は料理を少しだけいじる。
どうしても無視できない味にする。
自分の料理のほうが美味いと証明したいわけじゃない。
目の前にある料理の可能性を見もしないで、ただの燃料扱いしていることが気に入らないのだ。
オカフォーさんなら、勝手にレシピをいじるなと言う。ディーなら、完全に余計なお世話だと言う。ついでに『特別扱いするなら追加料金取ろう』とも言うだろう。
飲食店の経営というものを理解しているまともな大人なら、全員そちらに賛成するはずだ。
私は今回も、一人の言うことも聞く気がなかった。
三皿目が空になった。
そして間もなく、四皿目の注文が入る。
ディーが出来上がった料理へ手を伸ばした。
私はトレーの端を掴んだ。
「十分」
ディーが私の手を見る。
次に、私の顔を見る。
「リリアン。もう注文入ってるんだけど」
「ちゃんと出すよ」
「じゃあ離して」
「これはダメ。さっき洗剤こぼしたから」
「私が言ったことより百倍ダメになってるじゃん」
トレーを自分の側へ引き戻す。
「十分だけ。十分あればいい」
二人揃ってボックス席を見る。
ドリフトが厨房を真正面から見ていた。
口いっぱいに何かを入れて、もぐもぐしている。
頬まで少し膨らんでいて、食い意地の張ったハムスターみたいだ。
苛立っているわけではない。ただじっと見ている。
たぶん。
次の肉はまだか、と考えているだけだ。
ディーが私を見る。
「また“例のやつ”やる気でしょ」
「例のやつって何。パンツの中に何か隠してるみたいな言い方やめてくれる?」
「そういうくだらないこと言うのも含めて、あんたの“例のやつ”」
「ひどい」
「パンツの中には何も隠してないよ?」
「聞いてない」
即答だった。
ディーはため息をつく。
「あんたには一個しかないの。誰かの食べ方が気に入らないと、勝手に個人的な問題にするやつ」
「食べ方には正解があるんだよ、ディーちゃん。そこを外す奴はだいたい悪人」
「今ここで一番悪いのはあんただよ。食べ物なんて、口に入れて飲み込めば正解でしょ」
「それは最低条件。私が言ってるのは体験の話」
「あの人は体験なんて注文してない。カルビを注文したの」
「だからカルビは出すって」
さらにトレーを引く。
「体験付きのカルビを」
いつの間にか、トレーを挟んだ綱引きになっていた。
二人で両端を握ったまま動かない。
「お前ら、やめろ」
料理が宙を舞う前に、オカフォーさんの声が飛んできた。
ディーが即座に手を離し、降参するみたいに両手を上げる。
「はいはい。勝手にすれば」
メモ帳を掴んだ。
「あの背の高い怖い人が『友達の料理はまだ?』って厨房まで来たら、私あんた指差すから」
「合理的だね」
「本気だからね」
ディーが睨む。
「あの人の近く行ってないからそんなこと言えるんだよ。怒った顔見たら、絶対漏らすから」
「今度はそっちがくだらないこと言ってるじゃん」
ディーは『いや、絶対そうなる』という顔を最後まで崩さず、ホールへ戻っていった。
よし。
十分。
時間勝負だ。
鉄板の火力を上げ、カルビをもう一度置く。
タレが鉄板へ触れた瞬間、換気扇まで震えそうな勢いでジュワッと音が弾けた。脂と砂糖が広がり、すぐに色が濃くなる。
立ち上る煙。焦がし醤油。カラメル。それから、ちょっと危険な匂い。
普通ならカルビは、ここまで行く前に鉄板から上げる。
オカフォーさんなら『焦がしてる』と言うだろう。
時間だけ見れば正しい。
出来上がりについては間違っている。
ただし彼はものすごく大きな声で『正しい』と言い張るので、この厨房では最終的に声量が勝つことも多い。
狙っているのは端だ。
苦くはしない。
炭にも変えない。
ただ、安全圏を少しだけ越える。
砂糖が深い焦げ茶色まで変わり、歯で噛んだ瞬間に分かる薄い膜を作るところまで。
脳が『燃料』と分類する前に、歯へ先に気づかせる。
パチパチと肉が鳴る。
――ここ。
いつものつけダレを横へ避けた。
美味い。
安定している。
十五年間、この店を支えてきた優秀なタレだ。
そして三皿分食べさせても、ドリフトから観測可能な反応を一つも引き出せなかった。
よって権限剥奪。
小さなステンレスボウルを出す。
まず醤油。スプーンへまとわりついて離れたくないくらいまで、しっかり煮詰める。砂糖ではなく、すりおろした梨。辛さの下に、ちゃんと綺麗な甘みを置きたい。生姜は細かくすりおろす。重たい味に沈ませず、口へ入れた瞬間に香りを立たせる。韓国唐辛子は色と辛み。最初から殴る辛さではなく、少し遅れて追いかけてくるくらいがいい。
味を見る。
惜しい。
でも、まだ足りない。
米酢を一滴。
もう一度。
今度は甘みが遠慮しなくなった。
よし。
次は米。
ここは好きな作業だ。
石鍋を火にかける。飯を入れる。スプーンの背で底へしっかり押しつける。パチパチと米が鳴り始めるまで。
中途半端に押せば、中途半端なものしかできない。
やるなら本気で押す。
白かった米の端が、きつね色になる。それから飴色。香ばしい匂いが立ち上がった。
寒い朝に焼いたトーストみたいな、温かくて少し甘い香り。
ヌルンジ。
ただの白飯を、記憶に残るものへ変える部分だ。
韓国では食事の最後にここを奪い合う、と料理動画で言っていた。本当かどうかは知らない。でも金属の箸を使うくらいだ。たぶん戦う覚悟はある。
最後は付け合わせ。
朝に仕込んだキュウリのパンチャンは、もう少し柔らかくなっていた。
弱い。
元気がない。
皿の上で見ているだけで涙が出そうだ。
いや、普通に出すぶんには何の問題もない。オカフォーさんなら迷わず使うし、ほとんどの客は普通に満足する。
だが。
今日の相手は『ほとんどの客』じゃない。
新しいキュウリを出す。斜めに薄く切る。塩を振り、水を出す。
九十秒。
それ以上はダメだ。
歯応えが死ぬ。
さっと洗って、水気を切る。
ごま油。ニンニク。それから、少しだけ魚醤。
ちゃんと噛み返してくる味にする。
パンチャンは飾りじゃない。
人数合わせで呼ばれた友達でもない。
句読点だ。
カルビとヌルンジだけでは、文章がずっと続く。
濃い。
重い。
そのままでは疲れる。
だから、ここで切る。
冷たいキュウリ。酸味。辛み。
脂と焦げた肉の余韻を、一度すっぱり流す。
舌をリセットしてやる。
そうすれば次の熱い一口が、また最初の一口みたいに感じられる。
読点。
句点。
ついでに感嘆符。
それがパンチャンだ。
皿へ盛る。
白い陶器の上で、カルビの濃い照りが光る。
石鍋の飯には、縁まで綺麗な飴色の焼き目。
隣には、明るい緑色のキュウリ。
重い肉の横で、いかにもさっぱりしていそうに見える。
私は出来上がった皿を眺めた。
悪くない。
いや。
悪くないどころじゃない。
これは――。
傑作では?
トレーを持ち上げる。
せっかくだ。
自分で持っていこう。
気づくかどうか、この目で見たい。
そして気づいた瞬間には、料理人として誇らしげに笑ってやろう。
その進路を、オカフォーさんが塞いでいた。
私は器の縁についていたタレを一滴だけ拭き取る。
彼は何も聞かない。
怒っている顔でもない。
呆れているわけでもない。
ただ、説明を待っていた。
「気に入ってるみたいなので」
「見れば分かる。もう同じものを四皿頼んでる」
「好きなのは好きなんでしょうけど、今は食べてるだけなんですよ」
角の席を見る。
「せっかくなら、ちゃんと楽しんで食べてもらいたいじゃないですか」
そのドリフトは現在、ドッツァの皿から肉を奪おうとしていた。
三皿目を空にして、四皿目を待っている間のつなぎらしい。
ドッツァも箸で抵抗している。
オカフォーさんが私を見る。
「一人の客のために一皿だけ作り直す。昼のピーク中にな」
「有名人ですよ」
「なら余計に悪い」
「ファンが見てるんです。これ食べて反応したら、みんな同じの注文しますよ」
「カルビはもうほとんど残ってない」
「来週の火曜日への投資ということで」
「俺には、お前が仕事そっちのけで遊んでるようにしか見えん」
そこで、少し間があいた。
「……で?」
オカフォーさんが私を見る。
「そこまでやる理由は何だ?」
正直に答えることもできた。
気になったのは、食べ方だけじゃない。
あれを見ていると。
木星にいた頃の人間たちを思い出す。
ただそれだけだ。
そして私は、そういうものを今ここで見たくなかった。
でも。
「分かりません、ボス?」
私はトレーを少し持ち上げた。
「美人には、ちょっとくらい特別サービスしたくなるじゃないですか」
オカフォーさんの手元が動いた。
ほんの少し。
気のせいと言われれば、それまでの程度。
何を意味したのかは分からない。
やがて彼はため息をついた。
「次からは、そういうことをするなら暇な時間にしろ」
オカフォーさんは、人を見るのが上手い。
そこは昔から尊敬している。
もしかしたら感謝の気持ちを込めて、今度何かちゃんとした贈り物でも――。
いや。
やめよう。
こういう空気は苦手だ。
急にテレビドラマみたいに真面目な雰囲気になると、どうしていいか分からなくなる。
「ありがとうございます、ボス」
「何だ?」
「今の聞きました?」
わざと大げさに言う。
「私がお礼言いましたよ。あ・り・が・と・う、って」
「どうでもいい。さっさとその皿を厨房から出せ」
完全な許可と受け取った。
もう何か言われる前に、私はホールへ向かう。
背後から、オカフォーさんのぼやきが聞こえた。
「まったく……コロニー育ちは伝統ってものを知らん」
「尊重してますよー」
振り返らずに返す。
「だからオカフォーさんが作ったもの、一回も捨ててないじゃないですか」
「はいはい。その皿だけは早く俺の目の前から消せ」
了解。
喜んで。




