第4話 ヴァナディス
最初に聞こえたのは、店の外から上がった甲高い声だった。
窓際にいた常連三人が、食べている途中でびくっと肩を跳ねさせ、一斉に入口を見る。
私も鉄板から顔を上げた。
駐車場から、四人の女がこちらへ歩いてくる。
外にいた連中は、もうその中の誰かに気づいたらしい。
私は先頭を歩く女を見る。
背が高い。
細身で、白とセーフティオレンジのコンプレッションウェア。その上から厚手のキャンバスジャケットを羽織っている。
短い髪は耳の周りが微妙に不揃いだった。
高級サロンでわざとそう仕上げてもらったのか、それとも落ち着きのない子供みたいに途中でじっとしていられなくなって、爪切りか何かで自分で切ったのか。
どっちでも成立しそうなのがすごい。
顔立ちはシャープだった。
美人というより、少しハンサム寄り。
写真で止めて見るより、動いているところを見たほうがずっと映える顔だ。
でも、それ以上に。
あった。
あの感じが。
何もしていないのに周りの空気を持っていく、息苦しいくらい自然な存在感。
見た瞬間、頭の中で勝手に結論が出る。
ああ。
この人、有名人だ。
化粧らしい化粧もほとんどしていないのに、肌まで妙にきれいだった。
こういうのは誤魔化せない。
ファンが我を忘れて写真を撮りたがるのも、まあ分からなくはない。
フォロワー百万人だと言われても驚かない。
いや。
この存在感で百万人なら、むしろ桁を一つ間違えてないか聞くと思う。
ただし。
本人はそんなことを一切気にしていなかった。
自分の顔も。
フォロワー数も。
今この店で何人が自分を見ているかも。
なぜなら彼女は今。
メニューを見ていた。
それだけだった。
周囲でスマホが光っているのも、名前を呼ばれているのも、頭には入っていないらしい。
無表情。
半分よだれでも垂らしそうな口元。
そして一点集中。
メニュー。
メニューだけを見ている。
自分の名前を叫ぶ人間で店が埋まっているのに、最初に考えるのが「食べたいものがあるか」。
正しい。
非常に正しい。
優先順位というものを分かっている人間の行動だ。
その時、また一つ声が上がった。
今度はまだ悲鳴まではいかない。
どうやらこのファンたちには、一応自制心というものがあるらしい。
普通なら有名人を見つけた瞬間、人間として最低限必要な距離感まで忘れて突撃する連中もいる。
なのにこいつらは耐えている。
ちょっと敬礼したくなった。
やらないけど。
オカフォーさんに見つかったら、またくだらないことを始めたと思われる。
だが、その一時的な停戦も長くは続かなかった。
椅子が一斉に引かれる。
スマホが上がる。
例のパーカーを着た二人組が、号令を受けた兵士みたいに同時に一歩踏み出した。
一人だけ気持ちが先走って、半歩くらい前に出ていたけど。
「あ、あの、レインさん――」
……ん?
私は少し見誤っていたらしい。
てっきり、そっとしておいて、離れたところから食事している姿を眺める程度だと思っていた。
改めて考えると、それはそれでかなり気持ち悪い。
背筋にぞわっとしたものが走った。
女の子が最後まで言う前に、隣の友達が脇腹へ鋭い肘を入れた。
「ちょっ、本名で呼ばないで! 私たちそんな距離じゃないでしょ!」
本人は小声で言ったつもりらしい。
その『小声』を音量の単位にするなら、芝刈り機くらいはあった。
たぶん外をうろついているエロジジイにも聞こえた。
肘を食らった女の子が真っ赤になる。
そこでようやく、ドリフトがメニューから顔を上げた。
「す、すみません。ドリフトさん、一緒に写真撮ってもいいですか?」
ドリフトが二人を見る。
二人もドリフトを見る。
数秒。
無言。
私はカルビを一枚ひっくり返した。
脂がジュッと鳴る。
まだ見つめ合っている。
そしてようやく。
どうやらドリフトは、自分も返事をしなければならないことに気づいたらしい。
一度だけ頷いた。
「いいよ」
そのあと。
一拍遅れて笑顔が届いた。
別の州から郵送されてきたみたいな遅さだった。
二人の女の子が倒れそうになる。
まあ、もし私くらい愛想よく笑われたら、その場で死んでいたかもしれない。
「待って待って待ってー!」
そこへ二人目の女が、ドリフトの横からするりと割り込んだ。
小さい。
派手。
明るく脱色した髪の毛先はピンク。
艶のある唇。
片方の肩からずり落ちそうなオーバーサイズのジャケット。
厚底スニーカー。
スマホには、もはや鈍器として申告が必要なんじゃないかと思うくらい大量のチャームがついている。
身につけているブランドも、だいたいハントキャストのCMで見覚えがあった。
それから。
明るい笑顔。
小柄な身体。
その割にやたら主張の激しい胸。
……。
クソ。
かわいい。
一瞬、視界を全部持っていかれた。
この薄暗い食堂の中で、一人だけ彩度設定を間違えたみたいに色が違う。
いや。
もう一回言おう。
かわいい。
たぶん、デトロイトに来てから初めて見た『背景モブっぽくない人間』だから余計そう感じるのだろう。
「はいはーい! 距離近い近い! みんなちょっと下がろっか!」
彼女――ロッテは、後ろを見もしないで腕を大きく振った。
「入ってきたばっかなんだからさー! せめて一回くらい空気吸わせてあげて? レインちゃんの二酸化炭素まで全部吸わないでよー!」
大人まで本当に下がった。
ピンクの毛先を揺らした小柄な女の子が、大声とピースサインだけで成人男女の群れを後退させた。
こいつ、犯罪者になったら強いな。
たぶん警察相手にも、「えー? それ絶対人違いなんだけどー?」だけで一時間くらい粘れる。
「写真は全然オッケー! でも一組ずつね! 勝手に触るの禁止! いきなりハグも禁止! あとクラッカーASMR配信について変な質問した奴はマジで出禁だから!」
「一回しか聞いてない!」
後ろから誰かが叫ぶ。
「一回でも多いから! 次やったら配信も現地イベもあーしが直々にBANするからね!」
店中が笑った。
何がそんなに面白いのか、私はさっぱり分からない。
ファンには大ウケしているから、たぶん何かあるのだろう。
「それから――」
ロッテはくるっと店内へ向き直り、片手でスマホを高く掲げた。
「みんな! 投稿する時のタグ、分かってるよねー!?」
「「「#GoDriftGo!」」」
店中から声が返った。
正確にはファンだけだ。
ディーと、ファンが来る前に運悪く席を取ってしまった中年客たちは、心底嫌そうな顔で飯を食っている。
ロッテは本気で楽しそうだった。
「よしっ、最高! じゃ、この二人からね! ちょい左向いて――逆逆、そっちじゃない! レインちゃん、笑って!」
「笑ってる」
ドリフトの顔は、一切変わっていない。
「もうちょい笑って!」
口元が二ミリくらい動いた。
たぶん。
一応、笑顔と呼べなくもない。
その瞬間。
ファンたちが、宝くじの一等当選を生中継で見た人みたいな声を上げた。
「そうそう! それ! 完璧! レインちゃん超かわいー!」
完璧ではない。
大きな笑顔でもない。
でもロッテの売り込み方だけは完璧だった。
普通の人間なら寝ている間でももう少し顔が動くと思うが、ファンは全部飲み込んでいる。
最初の二人が、神殿で祝福でも受けたみたいな顔でふらふら離れていく。
ロッテはもう次の組を呼び込んでいた。
「リリアン」
真後ろからオカフォーさんの低い声。
「注文が溜まってるぞ」
「はい」
まずい。
見すぎた。
手は鉄板へ。
目は受け渡し口へ戻す。
三人目の女は、店に入ってくるなり文句を言っていた。
日に焼けた肌。
明るい色の髪を高い位置で束ねたポニーテール。
肩には円筒形のギアバッグ。
ジムでみっちり運動して、そのまま帰ってきたような格好だった。
スポーツブラの上にトラックジャケットを開けたまま羽織り、鍛えた腹まで隠そうとしていない。
顔立ちは、いくつもの地域の血が混ざったような印象だった。
そして。
その組み合わせが、ものすごく似合っている。
エキゾチック美人。
たぶん、こういう人を見た時に使う言葉なんだろう。
彼女はロッテの後ろで立ち止まり、店内を見回した。
「ソフィア、早く来いって。もう手遅れだぞ、これ」
いや。
お前も最初から見てただろ。
数歩しか離れてないじゃないか。
四人目が店に入ってきた。
その瞬間。
ドリフトがただの『背の高い人』になった。
黒いジャケット。
身体に合ったパンツ。
ただでさえ高い身長をさらに盛るヒール。
鋭い眼鏡。
顔の材料は、高級スキンケア二割、残り八割が『目に入るもの全部に失望しています』。
片腕にはタブレット。
もう片方の手は耳元。
低い声でロシア語を話し続けている。
三単語に一つくらいなら分かる。
私のロシア語は物流現場仕様だ。
数字。
罵倒。
そして『書類』。
だいたいそれだけ。
彼女――ソフィアの視線が動く。
入口。
窓。
客の密度。
座席。
出口。
順番まで私と同じだった。
ただ、私はなるべく自然にやる。
向こうは最後に誰かのクビが飛ぶ報告書でも作っているような顔で堂々とやる。
「ラディ・ボーガ……」
ソフィアが額を押さえた。
「またロッテがやったのね」
「もう置いてこうぜ」
スポーツ女――ドッツァが言った。
「別の店でいいだろ。何ブロックか歩くくらい平気だって」
「イスクリュチェノ」
ぴしゃり。
「なんでだよ」
「ここで二人を放置したら、ロッテがこれを公式撮影会に変えるからよ」
ソフィアの声は平坦だった。
「レインはレインで、新しいファンが来るたびにその場で写真を撮り続ける。永遠に終わらないわ」
確認してみる。
ドリフトは四組目のファン相手にも、ほぼ同じ姿勢のまま立っていた。
建物が解体されるまで続けろと言われても、本当に続けそうだ。
対してロッテは、まだ心底楽しそうにしている。
ドッツァがギアバッグを背中側へ回すと、ソフィアの肩を掴んだ。
そのまま体重を預ける。
寄りかかる、というより。
乗っかっている。
疲れた動物が近くにある暖かい何かに身体を全部預けて、失礼という概念そのものを無視している感じだ。
「疲れたー、ソフィア。もう飯頼んで、あいつら全員いないことにしようぜ」
ソフィアは動かない。
微動だにしない。
なんならドッツァが腰に脚を回して完全に背中へ乗っても、この女なら普通に歩きそうだ。
どう見ても初めてではない。
そういえば。
私は誰かにおんぶしてもらった記憶がない。
まあ、低重力環境で意味もなく人の背中に乗る文化は、たぶん発達しにくい。
「そうね。ドッツァ、あなたも早く終わらせるのを手伝えるわ」
「どうやって?」
「ドリフトの後ろに立ちなさい」
「それで?」
「今と同じ顔をしていて」
「……は?」
「ファンが怖がって近づかなくなるから。あなた、そういうの得意でしょう」
「えぇー……昨日からずっと働いてんだから、もう無理だって」
ドッツァがようやくソフィアから離れる。
「ていうかソフィアの顔のほうが怖ぇだろ」
「やりなさい」
「ほら! ほらそれ! 鏡見ろって、その顔!」
ドッツァが指を差した。
確かにソフィアは怖い。
別に悪魔みたいな顔をしているわけじゃない。
あれだ。
厳しい母親が、悪さをした子供へ『今すぐやめなさい』を声に出さず伝える時の顔。
「ドッツァ」
「はいはい、分かったよ!」
肩を落とす。
「でも終わったらめちゃくちゃ食うからな。王様みたいに食ってやる」
「あなた、いつも餓死寸前のホームレスみたいに食べるでしょう」
「じゃあ今日はホームレスの王様だ!」
何を言っているんだ。
ドッツァはぶつぶつ言いながらギアバッグを引きずり、ドリフトの真後ろへ移動した。
腕を組む。
顎を引く。
目を細める。
そしてファン一人一人の顔を順番に見始めた。
ドリフトは美人で、気長そうに立っている。
その後ろのドッツァは、今この瞬間にも復讐対象リストを作っているようにしか見えない。
言いたいことは分かる。
近づきたいならどうぞ。
顔は覚えるけどな。
ドッツァと目が合ったファンから、じりじり後ろへ下がっていく。
スマホが下がる。
撮影待ちの列まで、誰に言われたわけでもないのに勝手に整列し始めた。
最後尾にいた遅れてきた連中は、さらに判断が早かった。
遠くから写真を撮れれば十分です。
そう顔に書いて、自分たちの席へ戻っていく。
私は吹き出した。
無理だった。
あれは才能だ。
オカフォーさんに見つかった。
「何がおかしい?」
「なんでもないです」
カルビをひっくり返す。
「ちょっと感心してただけで」
私の視線を追い、オカフォーさんもドッツァを見る。
「何もしてないだろ」
「そこですよ」
笑いを堪える。
「何もしてないのに、顔だけで全部片づけてる」
オカフォーさんが無言で私を見る。
「人の顔がおかしいのか、リリアン?」
「いえ、サー」
とりあえず軍隊式で返してみた。
乾いた笑いも添えた。
まったく説得力はなかった。
オカフォーさんは鼻を鳴らし、在庫の確認へ戻った。
その頃には、ソフィアがカウンターまで来ていた。
近くで見ると、さらに高い。
ディーが無意識に背筋を伸ばす。
というか、目を合わせるために首が四十五度くらい上を向いている。
「四人」
ソフィアが言った。
「角のボックス席を」
朝からファンが必死になって、誰にも座らせなかったあの席だ。
ディーも一度そちらを見る。
「あ、はい。こちらです」
ソフィアが歩き出す。
ディーの後ろについて店内を進む間、すでに席についているファンたちが畏敬の目で長身のロシア人を見送っていた。
私はコーヒーを注いだ。
そして、たった四人でこの食堂を半分軍事施設みたいな統制状態にしてしまった女たちが、角のボックス席へ収まるのを眺める。
今日のシフト。
かなり面白くなってきた。
「なんでコーヒー飲みながら得意げな顔してる」
オカフォーさんが低く言った。
「ほっといてください、オカフォーさん」
私はゆっくり一口飲んだ。
「肉に照りが出るまでのマイクロ休憩です」




