第3話 ファン・クラッシュ
昼のピークが始まるのは、本来なら十二時からだ。
十一時までには米を炊き、スープ類を温め、今日使う肉も一通り小分けにしておく。あとは注文が入るたびに焼いて、盛って、ディーが一度に六件くらい注文を叫んできても殺意を抑える。
だいたい、それがいつもの昼営業だ。
なのに十時半の時点で、一つを除いて全部のボックス席が埋まっていた。
おかしい。
もっとおかしいのは、客の顔ぶれだった。
普段の火曜日なら、近くの工事現場から来る作業員、貨物集積所の配車係、整備士、検査員。
それから近所に住むエロジジイが一人。
本人いわく『情熱的な韓国料理愛好家』らしい。
不思議なことに、その情熱が燃え上がるのは週替わり特別メニューの日だけだった。
毎週きっちり十一時四十五分に現れ、一番安い料理を注文し、ディーか私に、まともな祖父なら自分の半分も生きていない女に絶対聞かないような質問を一つはしていく。
今日また一線を越えた時のために、緊急用の激辛ソースも準備済みだ。
だが、今日の客は若かった。
ずっと若い。
半分は入口を見ている。
残り半分は、入口を気にしていないふりをしながらスマホを見ている。
飲み物には手をつけない。
上着も脱がない。
すでに三組が、窓際の角のボックス席が空いているか聞いてきた。
なのに誰も座ろうとしない。
一組なんて、その近くに座っていた別の客へ丁寧にお願いして席を移ってもらい、わざわざそこを空席にしていた。
非常に丁寧だった。
私としては、それでもあまり感じのいい行為には見えないけど。
ディーは通路を塞いだり騒ぎを起こしたりしない限り、売上が立てば気にしない。
それにしても、明らかに何かがおかしかった。
ここで働き始めて六か月。
こんな光景は一度も見たことがない。
たまにディーまで立ち止まって客席を見回しているところを見ると、向こうも同じらしい。
最初の兆候に気づいたのは、十時四十分頃だった。
新品丸出しのパーカーを着た女の子が店に入ってきて、店内を必要以上に念入りに確認したあと、カウンターまでやってきた。
「あ、あの……」
彼女は窓際の角にあるボックス席を指差した。
「あそこ、もう誰か買いましたか?」
「まあ、うちでは普段、家具は売ってないかな」
接客用のとびきり愛想のいい笑顔を向ける。
彼女は即座に舌を噛んだ。
「ち、違います! あの席、誰か予約してますか?」
「古い食堂だからね。席の予約は受けてないよ」
「じゃ、じゃあ私が買――じゃなくて、あそこで食べます!」
必死に指差した。
ボックス席ではない。
その隣のテーブルを。
「どうぞどうぞ」
同じように新品っぽい服を着た女の子が合流する頃には、最初の子はすでにクリーム入りルートビアを三杯注文していた。
二人ともほとんど喋らず、ずっとストローを吸っている。
背中には同じ鋭角的なエンブレム。
マットホワイトとセーフティオレンジ。
元のマークには見覚えがなかったが、その上にスプレーで殴り書きしたような文字は簡単に読めた。
VANADIS――ヴァナディス。
そこから先は、もう隠しようがなかった。
数分おきに、同じ色を身につけた客が入ってくる。
カウンターには、袖に揃いのオレンジラインを入れた若い男が二人。
入口近くの女のバッグにはヴァナディスのチャーム。
靴紐だけオレンジにしている奴までいる。
バッグに小さな金属製B.O.X.フィギュアをぶら下げ、それをヴァナディスカラーに塗っている人間も何人かいた。
駐車場を見れば、車まで白とオレンジにしている。
最初はファンの集まりかと思った。
でも、どうも違う。
誰も互いを知らない。
主催者はいない。
受付表もない。
無理やり司会進行を任されて泣きそうになっている不幸なボランティアもいない。
こいつらは集まっているんじゃない。
誰かを待ち伏せしている。
礼儀正しく。
ということは、狙われているのはたぶんハントキャストに出てくる有名人だ。
まあ、料理も飲み物も注文しているからいいけど。
ルートビアの在庫は死にそうだが、レジは喜んでいる。
普段よりずっと早くホールが埋まったので、私も厨房だけに籠もってはいられなくなった。
オカフォーズの仕事分担は単純だ。
オカフォーさんが厨房を仕切る。
ディーがホールを仕切る。
ホールが忙しくなったら、私もディーを手伝う。
ディーいわく『自然発生的な業務分担』。
私いわく『ジジイが人を増やさないせいで、三人で四人分働いている』。
オカフォーさんいわく『効率的な人員配置』。
給料を決められるのは一人だけなので、彼の定義が正式採用されている。
私は料理をする。
たまにウェイトレスにもなる。
チップは自分でもらっていいと知ってから、文句は言わなくなった。
今日は昼前から満席だ。
私は注文を取りに行くためコーヒーポットを持った。
まず自分のカップを満たす。
接客にはエネルギーが必要だからね。
ヴァナディスのパーカーを着た二人のところで足を止める。
「注文決まった?」
「あっ……カルビ定食で」
一人目は一秒も私を見ず、すぐ窓へ視線を戻した。
すると隣の子が突然その手首を掴んだ。
「待って! ドリフトちゃんが頼んで、売り切れてたらどうするの!?」
一人目の目が見開かれる。
「あっ! そっか!」
慌ててメニューを見直した。
「じゃあ、これにする? これなら、まあ普通っぽいし」
おい。
料理人の目の前で、うちのメニューを指差して『まあ普通』とか言うな。
そう言いたかった。
だが、年下の女の子二人を相手にする責任ある大人として、私は我慢した。
「カルビなら多めに仕込んでるよ。今日は火曜日だから」
二人目の顔が一気に明るくなる。
そこは本当だ。
特別メニューの日は二人前食べる作業員もいるので、オカフォーさんは普段より多めに用意している。
「じゃあ二つお願いします!」
毎週楽しみにしている作業員には悪いことをした。
知らないファンにいつもの席を取られたうえ、カルビまで食われる。
「ドリフトちゃんと同じランチ食べられる!」
嬉しそうで何よりです。
隣のテーブルで、ぽっちゃりした若い男がスマホを机の中央へ置いた。
両肘をテーブルにつく。
口元の前で指を組む。
部下一個師団を平然と捨て駒にしそうな司令官の顔になった。
「来るぞ」
友人が危うくグラスを倒しかける。
「え?」
「視認情報が取れた」
姿勢を一切崩さないまま、指一本でスマホを操作する。
「ロッテが四分前に投稿した写真だ。高架橋、ビルの位置、太陽角を照合した。現在地はダウンタウン東部でほぼ確定。最有力進入ルートなら、このブロックを通る」
「あと何分?」
「推定到着時間、十分」
眼鏡はずれていない。
なのにわざわざ押し上げた。
「アンバサダー橋方面の渋滞で迂回した場合、二十五から三十分。どちらにせよ、すでに作戦時間帯には入っている」
あまりにも真剣なので、だんだんパーカーが見えなくなってきた。
私の頭の中では、暗い作戦司令室に座り、周りの士官たちが発射許可を待っている。
「コメント増えてる?」と、さっきの女の子。
「投稿への反応はすでに千いいねを突破。現在も加速中だ。複数のアカウントが独立して位置を特定している」
組んだ指の向こうで目が細くなる。
「オカフォーズの住所は割れた」
女の子が口元を押さえた。
「私たち、一番乗りじゃん」
「超ラッキー!」
「だから言っただろう。俺の情報精度はA1級だ」
ぽっちゃり司令官は得意げに続ける。
「日曜夜の配信で、ドリフトはカルビを食べたいという意思を表明していた。現在の移動ルート、既知の嗜好、現実的な移動距離にある店を照合した結果、候補は三店舗」
地図上のオカフォーズを指で叩く。
「その中で、この店が最有力だった」
組んだ指の上に、小さく勝ち誇った笑みが浮かんだ。
「予測通りだ」
「何言ってんのデブ。あの子、肉食いたいって言っただけじゃん。調子乗んな」
完璧だった司令官フォームが一瞬で崩壊した。
デブと呼んだ女を勢いよく指差す。
「うるさい女! カルビは肉だろ!」
それまでのどの台詞より大きく、そして圧倒的に司令官らしくない声だった。
昔、私も上官に『調子に乗るな』と言ったことがある。
もっと大声で怒鳴られた。
周りの客からも「デブー!」とか「外したら奢れよー!」とか声が飛ぶ。
カウンター付近ではブーイングまで始まった。
司令官の顔が真っ赤になる。
だが、一度咳払いをすると眼鏡を押し上げ、もう一度ゆっくり指を組んだ。
「その反論は、情報の信頼性を否定する根拠にはならない」
こいつらが本気で喧嘩しているのか、暴言を使わないと会話できないだけなのか、私には判断できなかった。
「フライドチキンの写真も指差してたぞ!」
別のテーブルから声が飛ぶ。
「あれ、韓国系密輸団とやり合う前じゃなかった?」
「後だよ!」
「違うって! アーカイブの時間見ろ!」
気づけば店の半分で、かなり本格的な戦術会議が始まっていた。
初対面らしい連中がスクリーンショット、投稿時刻、道路状況、過去配信のコメントまで持ち出して比較を始める。
仲はあまり良さそうに見えない。
でも熱意だけは疑いようがない。
私は中立第三者として巻き込まれる前に、ゆっくり後退した。
状況は理解した。
一人の有名人が食べ物の話をした。
別の一人が写真を投稿した。
数百人の執念深いファンが情報を組み合わせ、昼飯を食べる店まで特定した。
素晴らしい。
彼らと違って、私はもうスマホを見る必要もない。
コーヒーをもう一杯注ぎ、ヘラを掴んで厨房へ戻った。
席はまだ少しだけ空いていた。
だが、いつもの昼客は窓の外から店内を見た瞬間、そのまま通り過ぎていった。
あとで戻ってくる人もいるだろう。
もっと静かな店を探す人もいる。
そして、あの『情熱的な韓国料理愛好家』まで店に入ってこなかった。
エロジジイは道の向こうをうろうろしている。
一度入口へ近づいては引き返す。
また近づいては引き返す。
どうやら一週間待ち続けたカルビを諦めることより、叫び声を上げる若者で満員の店に入るほうが怖いらしい。
よし。
緊急用激辛ソースは、来週まで取っておこう。




