第52話 オスの三毛猫
ハグサ山。
夕暮れ。
木々の隙間から差し込む橙色の光が、静かな空気を包んでいた。
チュウジは遠くを見つめ、小さく息をつく。
「……では。」
「わしの昔話でも始めるとしようか。」
ナナとユキは姿勢を正す。
チュウジはゆっくりと語り始めた。
「わしの母は野良猫じゃった。」
「子を身籠り、出産する場所を探し続け……。」
「とある農家の道具小屋へ住み着いた。」
そこで三匹の子猫が生まれた。
一匹は黒。
一匹は茶トラ。
そして――
わし。
オスの三毛猫。
まだ目も開かぬ、小さな命だった。
数日後。
子猫たちの鳴き声に気づいた二人の少女が、小屋へやって来た。
小学校へ通うくらいの姉妹だった。
「かわいい……。」
「お母さん猫、お腹空いてるよ。」
二人はこっそり水を置き、魚の切れ端やご飯を運んできてくれた。
母は警戒しながらも、その優しさを受け入れていた。
あの子たちは、本当に優しい人間じゃった。
しかし。
その優しい時間は長く続かなかった。
ある日。
姉妹の父親に見つかってしまった。
「何やってる!」
怒鳴り声が響く。
「野良猫なんかに餌をやるんじゃない!」
娘たちは泣きながら訴えた。
「お願い!」
「この子たち助けて!」
しかし男は首を振る。
「野良猫を置いておけば増えるだけだ。」
「捨ててくる。」
母猫はわしらを庇うように立ちはだかった。
その時だった。
男の表情が変わる。
「……待て。」
わしを見つめる。
じっと。
何度も。
「まさか……。」
「オスの三毛か?」
驚いたようにつぶやく。
男はすぐに誰かへ連絡を始めた。
その頃のわしには当然分からぬ。
ただ。
母から離され。
一匹だけ小さな檻へ入れられた。
その瞬間だけは。
幼いながらも、本能で危険を感じた。
それから数日。
何人もの人間が家へやって来た。
檻の前で眺める。
何かを話す。
首を振る者。
指を立てる者。
笑う者。
今思えば。
値段の話をしていたのだろう。
希少なオスの三毛猫。
わしは、高く売れる商品になっていた。
それでも。
幼かったわしが考えていたことは一つだけ。
母はどこだろう。
兄弟は元気だろうか。
そして。
優しかったあの姉妹は、どうしているのだろう。
それだけじゃった。
ある日の夕方。
突然。
姉妹が部屋へ飛び込んできた。
「早く!」
「今しかない!」
慌てた様子で檻を抱える。
家を飛び出し。
息を切らせながら走る。
走る。
走る。
やがて森の入り口まで来ると。
檻を開けた。
「ごめんね……。」
「逃げて。」
何を言っていたのか。
正確には覚えておらん。
じゃが。
あの時の顔だけは今でも忘れぬ。
泣いていた。
きっと。
謝っていたのだろう。
わしは一度だけ振り返り。
森へ駆け込んだ。
その後。
姉妹がどうなったのか。
わしは知らぬ。
ただ。
大人たちが必死になって森を探していたのは覚えている。
きっと。
逃がしたことが知られたのだろう。
わしは母を探した。
来る日も。
来る日も。
手がかりなど無い。
水たまりの水を飲み。
虫を食べ。
木の実をかじり。
何度も飢えた。
何度も人間に追われた。
何度もカラスに襲われた。
それでも。
生きた。
生きるしかなかった。
数か月が過ぎた。
いや。
もっと長かったかもしれん。
元より時間の概念など無かったがな。
生きる事に必死すぎて。
母も。
兄弟も。
見つからぬまま。
一人ただ生き続けていたある日。
また。
人間たちに見つかった。
「いたぞ!」
「逃がすな!」
わしは夢中で走った。
足はもつれ。
息は切れ。
もう駄目かと思った。
その時。
一軒の古い家へ飛び込んだ。
家の奥から。
一人の老人が現れた。
初老の男だった。
男は何も言わず。
そっと玄関を閉める。
そして。
「腹減ってるだろ。」
器に魚を入れ。
目の前へ置いた。
あまりの美味しさに。
わしは夢中で食べた。
部屋の中には。
古びた猫用の器。
爪とぎ。
猫じゃらし。
猫が暮らしていた跡が残っていた。
男は優しく笑う。
「本当にいたんだな。」
「オスの三毛って。」
わしは食べる手を止めた。
男は静かに続ける。
「ああ。」
「心配すんな。」
「とっ捕まえて売るつもりはねぇ。」
その声は。
あの姉妹と同じだった。
温かかった。
わしは初めて。
人間という生き物を、怖いだけの存在ではないと思えた。
だが。
平穏は長くは続かなかった。
チュウジは一度言葉を切る。
ナナもユキも息を呑んでいた。
「その日が。」
「わしの運命を、大きく変える一日になったのじゃ。」




