37話目
廃ビル群の奥へ。ハヤテは全力で駆けていた。
肺が焼ける。肋骨は呼吸のたびに軋み、左腕はもう感覚が怪しい。
それでも足を止めない。止まった瞬間に終わる。背後から地面を砕きながら迫るオニグマ。
チラリと後方へ目を向け、反射的に横へ飛ぶ。次の瞬間。さっきまで走っていた道路が消し飛んだ。
「っ……!」
瓦礫が肩を打つ。肩に痛みが走る。
だが確認している暇はない。
オニグマがまた来る。まるで疲れを知らない。巨大な前脚が振り抜かれる。
ハヤテはビルの壁を蹴り、無理やり軌道を変えた。
風圧だけで窓ガラスが砕け散る。
まともに当たれば死ぬ。それが分かる。嫌になるほどに理解している。
「クソが……」
双剣を握り直す。逃げながら斬る。
肩、首元、脚へ淀みなく流れる。
だが浅い。血は出る。しかし止まらない。
オニグマは傷など存在しないかのように突進してくる。
理不尽。強いとかそういう話じゃない。ただ暴力の塊だ。
人間が積み上げた技術も経験も。
全部まとめて踏み潰してくるような存在。
だからこそ、ハヤテは昔を思い出した。
新人時代。
初めて大型種と遭遇した遠征。
逃げる自分達。
殿を引き受けた先輩。
『先に行け』
笑っていた。
あの人は強かった。
今の自分よりずっと。
それでも帰らなかった。
「……はっ」
苦笑が漏れる。最悪だ。
今の自分が同じ位置にいる。自分が死ぬことを連想している。それも無意識にだ。ギリッと奥歯を噛み締めると、そこへ通信が入った。
『ハヤテ』
レイナだった。ノイズ混じりの声。
『聞こえる?』
「ああ」
『生きてる?』
「多分な」
『多分じゃなくて答えなさい』
さっきまでの調子だった。少しだけ安心する。
「肋骨何本か。左腕死にかけ」
『歩ける?』
「走れてる」
『視界』
「問題なし」
『出血』
「まあまあ」
『それは結構してるって意味ね』
即答だった。ハヤテは思わず笑う。
そして次の瞬間。オニグマが飛んだ。
「っ!」
前転。着地。振り向く。
すぐ目の前に巨体に双剣を交差して構える。
振り抜かれる前脚。トラックに撥ねられたからのような衝撃。
踏ん張っていた足が地面を離れ、身体が吹き飛ぶ。ビルの壁を突き破り、そのまま室内へ転がり込んだ。
「がっ……!」
血が吐き出される。
『ハヤテ!?』
「あぁ」
叫ぶ。
本当にギリギリだった。あと少し遅れていたら終わっていた。
瓦礫を蹴飛ばして立ち上がる。その間にも通信は続く。
『場所は?』
「おそらく北西の商業区画」
『目印』
「赤い鉄塔」
『了解』
短く返事。
それだけでレイナが現在地を把握しているのが分かった。
昨日、今日と彼女は戦場で必要なことしか聞かない。それは常に判断を鈍らせないための情報収集であり、彼女がハンターとしての実力が高い事を伺わせる。
『オニグマは?』
ハヤテは崩れた壁の向こうを見る。黒い巨体。パッと見は傷だらけ。血も流れている。
だが。
「元気だな」
思わず笑った。
「全然元気だ」
冗談みたいな話だった。
あれだけ斬った。あれだけ傷を増やした。それなのに、何でもないかの様に動き回る。まだ殺せる気がしない。
通信の向こうで沈黙が落ちる。
『……そう』
レイナも理解したのだろう。状況が想像以上に悪いことを。
『ナツメ』
通信の向こうで声がする。
『聞いてる』
『救援要請は』
『送った』
『返答は』
『まだ』
嫌な沈黙。オニグマが瓦礫を踏み砕く。
一歩。
また一歩。
確実に近付いてくる。
ハヤテは双剣を構えた。手が震える。久々の恐怖だった。死ぬかもしれない。
いや、かなりリーチがかかっているだろう。なんなら流れる血を放置しても死ねる。いつツモってもおかしくない。
それでもまだ終わっていない。
『ハヤテ』
レイナの声。
『絶対死ぬな』
命令だった。願いじゃない。隊長としての命令。
ハヤテは小さく笑う。
「無茶言うな」
『知ってる』
「なら」
『それでも死ぬな』
短い沈黙。
その直後、オニグマが咆哮した。
ビル全体が震える。瓦礫が落ちる。
そして黒い巨体が再び突進した。ハヤテは血の混じった唾を吐き捨てる。
双剣を握る。逃げるためじゃない。生き残るために。
まだ戦うために。オニグマが突っ込む。
ハヤテも動く。
正面からは受けない。
右へ。左へ。
ビルの残骸を利用しながら距離を調整する。
まともにやり合えば終わる。
だから徹底して避ける。
脚へ一撃。すぐ離脱。
肩へ一撃。また離脱。
それを何度も繰り返す。
少しずつ。本当に少しずつだが傷は増えていた。黒い血が地面を汚していく。
「効いてねぇ訳じゃない」
息を切らしながら呟く。
勝てない。だか、それ終わるわけではない。今勝てなくても、いずれ勝てるように楔を打ち続ける。
そう考えた時だった。
違和感。
「……?」
ハヤテは眉をひそめた。
今の攻撃。少し速かった気がした。気のせいかとも思う。疲労で判断が鈍っている可能性もある。自分が遅くなっているのもあるだろう。
だが、次の瞬間。
振り抜かれた前脚が頬を掠めた。皮膚が裂ける。
「ッ!?」
避けたはずだった。
今までの速度なら余裕を持って避けられていた。
距離を取る。呼吸を整える。オニグマは追ってくる。変わらず暴力的な突進。変わらず理不尽な膂力。
「冗談きついぜ……」
ハヤテは気付く。
足の回転が僅かに早い。踏み込んだ地面がさっきよりも派手に砕ける。
オニグマが僅かに早く動く。前脚。いつもの一撃。目にはそう見えた。だが、本能のままに避けた。今までより大袈裟に。
ゴウっ!!
抉れた地面が物語る攻撃範囲の増加。ギアが上がった。もしくはこちら兎とでも認識したのだろうか。
もう一度オニグマの前脚を躱す。地面が砕ける。その衝撃で跳ねた瓦礫を足場にして距離を取る。
今までならそれで十分だった。
だが次の瞬間、オニグマはそのまま身体を捻った。
「――ッ!?」
追撃。
今まで無かった軌道だった。咄嗟に身を伏せる。頭上を黒い爪が通過した。
髪が数本宙を舞う。冷や汗が流れた。偶然かと思った。
違う。
その次も。そのまた次も。
避けた先へ腕が伸びる。離脱しようとした方向へ巨体が滑り込む。
まるでこちらの動きを読んでいるようだった。
「……クソが」
息を吐く。
違う。読んでいるわけじゃない。
そんな器用な相手ではない。ただ、戦いながら最適化している。
何度も避けられた軌道。何度も届かなかった距離。
それを暴力的な身体能力のまま修正している。獣の学習速度としては異常だった。
そして最悪なことに。
それに気付いた自分の身体は、もうまともに動いていない。
呼吸が浅い。
視界が揺れる。
左腕は痺れたまま戻らない。
脚も重い。
避けられているのは経験のおかげだ。戦闘に最適化されるのは相手だけじゃない。
だが、その経験で稼いだ余裕が少しずつ削られている。
理解できる。だからこそ分かる。
このまま続けば先に限界が来るのは自分だ。
少しずつ確実にハヤテの首に鎌はかけられていた。




