第9話 兄さん
5月のある日、放課後のことだった。ペントハウスに帰ると、ソファでだらけている男がいた。髪は暗い茶色で、瞳は緑色。スマホに通知が来ていたから、誰なのかはすぐに分かったけど、まさか本当に飛び込んできてだらけているとは思わなかった。
「兄さん、ここで何してるの?」
「俺の可愛い可愛い蓮くんに会いに来ただけだよ!」
僕はムッとした顔をした。
「だからってソファでだらけていい理由にはならないでしょ」
「え、なんで?ここでいやらしいことでもするのか?」
「はぁ?!何言ってんの?!」
「まあそうだよな。お前は俺に似て真面目だもんな」
僕の兄――一ノ瀬颯真。
「はぁ……ホテル取ってよ……」
「なんでだよ!?!?どうせここに来る友達もいないだろ……」
「……」
「ん?なんだその沈黙。まさか……」
「学校で何人かできたよ――」
「弟に友達ができた!!正体隠してるのに!!」
「兄さん、落ち着いて!近所迷惑になるから!」
「別にいいだろ!そろそろ本物の友達ができてもいい頃だし!」
「兄さんが言えることじゃないでしょ。彼女がいるだけじゃないの?」
「俺の『妻』は、この世で一番大切な人だ。その次にお前がいるんだよ!」
「……それは傷つくな」
「安心しろって、俺にもちゃんと頼れる友達いるから」
「まあ、父さんはどうでもいいと思ってそうだけど」
「あー……それはそうかもな。でもな!今週は、お気に入りの兄さんがずっとそばにいてくれるんだぞ、ラッキーだと思えよ!」
「そうだね――ちょっと待って、一週間?!」
「そう!」
彼はその時点でソファの上で飛び跳ねていた。大きめのTシャツに、短パン姿だった。
「俺、バイトも部活もあるんだけど!兄さんの面倒なんて見てられな――」
「心配すんな。夜10時か11時くらいには帰ってくるから」
彼はにやにやしていた。正直、それが余計にイラッとした。
「ゲスト講演も頼まれてるから、それもあるし!」
――今週、絶対大変なことになる……
―翌日、学校にて|如月葵視点―
あたしは彩音ちゃんと一緒に学校へ向かいながら、校長先生の朝の放送を聞いていた。
「おはようございます、生徒の皆さん!本日は特別な日です。かの一ノ瀬颯真様が、今日この学園にいらっしゃっています!校内を視察されますので、皆さん、くれぐれも礼儀正しくお過ごしください」
彼のことはニュースで見たことがあった。政治家で、しかもかなりの大物だった。この学校への影響力も、きっとすごいものなんだろう。
でも、まあそんなことどうでもいい。あたしには関係ないし!それより、佐藤くんだ!
「佐藤――え」
彼はひどく怯えた顔をしていた。本当に、心の底から怯えているような。まるで、これから狩られて殺されるとでも聞いたかのような表情だった。
「大丈夫?」
彼はこちらを見て、なんとか笑おうとしていた。
「う、うん……」
嘘だってすぐに分かった。彼の顔には「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!!」って書いてあったから。
「何かあったの?」
「え……悪い夢見て」
「緊張してるとか?」
「な、ないよ……」
絶対緊張してた。
でも、それに気づく間もなく、一ノ瀬様が校長先生と一緒にこちらへ歩いてきていた。佐藤くんは、まるで心臓が床に落ちたみたいな顔をして、透明人間のようにこっそり離れようとしていた。でも、もう遅かった。
あたしは戸惑いながら立っていた。一ノ瀬様は佐藤くんを見て、佐藤くんも見つめ返した。それから、あたしのほうを見た。
彼はゆっくり近づいてきて、あたしの顔をまっすぐ見つめて、満面の笑みを浮かべた。
「君、彼の彼女?」
あたしは花火みたいにぱっと顔が赤くなった。頬が、彼のネクタイと同じくらい真っ赤になっていたと思う。
「え、な――は?なに?!?!?」
佐藤くんは、あたしよりもっと恥ずかしそうにしていた。
「で?どうなの?吐いちゃいなよ!」
校長先生――禿頭の老人――が、彼の隣に立っていた。
「一ノ瀬様、高校生の恋愛事情にご興味を持たれる必要はないかと……」
その時点で、廊下じゅうの視線がこっちに集まっていた。
「心配しなくていい!ちょっとからかっただけだから!」
「あ……そういえば言い忘れてましたが、去年の全国大会で優勝したのは君ですよね?バレー部の顧問から聞きました」
校長先生のその質問に、彼は驚いた顔を見せた。
「は、はい。それは、その通りです……」
佐藤くんは少しずつあたしの近くに寄ってきていた。あたしの少し前に立っていた。まだ恥ずかしそうにしていたけど、それでもあたしの隣に立ってくれていた。
「彼女、もう十分だと思うので……」
一ノ瀬様は、まるでペットが何か面白い、可愛いことをした時みたいな、小さな笑みを浮かべた。
彼はあたしのほうを向いて、その表情のまま言った。
「俺の代わりに、こいつを守ってやってくれよ」
「は、はい……」
あたしは小さな声でそう答えた。彼の声も、同じくらい小さかった。佐藤くんは、この時点で真っ赤になっていて、ほとんど声も出せなくなっていた。かろうじて、これだけ言えた。
「い……前も言ったけど……彼女、もう十分だと思う……」
「あー可愛いなあ!まあいいや。それじゃ、俺は行くから!」
そう言って、彼は去っていった。その日一日、佐藤くんはずっと赤い顔をして、黙り込んでいた。正直、あたしもあの後、しばらく何も言えなかった。今、講堂の壇上でスピーチしているあの政治家が、あたしに「佐藤くんの彼女か」って聞いてきたんだから。
でも、それとは別に、何かがずっと胸に引っかかっていた。
「俺の代わりに守ってやってくれ」って、どういう意味だったんだろう。「俺の代わりに」って、一体――
―一ノ瀬/佐藤蓮視点―
僕は自分の部屋で、兄さんと一緒にヒステリックなくらい笑い転げていた。
「ヴァハハハハハハッ!!!」
「笑うのやめてよ!!俺がどれだけ恥ずかしかったか、兄さんに分かる?!」
「オホホ!あの時の顔!」
彼は僕の恥ずかしそうな顔を真似しようとしていた。
「彼女、もう十分だと思う……ヴァハハハハ!」
僕はクッションを次々と投げつけた。一つ手に取って、それで彼を叩いた。
「アハハハ――わかった!わかったって!ごめんって!ちょ、待って――ごめんって言ったから――もう叩くのやめてくれ!」
「まったく……あれは兄さんが今までやった中でも一番アホな行動だったと思う……」
彼の顔には、これっぽっちも反省の色がなかった。
「彼女、嫌がってなかったみたいだけどな……」
「はぁ?!それ、セクハラする人がよく言う言い訳だからね?!」
「うるさいな!どう見てもお前に気があるだろ、このデブ!」
「ぐ……」
「まあ落ち着け。冗談だって」
「もし彼女が本当に俺のこと好きだとしても、俺はちゃんと待ちたいんだ。ちゃんと、かっこよく告白したい。今の俺は、まだベストな状態じゃないから。もっと頑張って、目標に近づきたいんだ」
兄さんは、驚きと戸惑いが混ざったような顔でこっちを見た。
「もし彼女が俺と付き合うって決めてくれるなら、それは俺が一番いい状態のときであってほしい。最悪の状態のときじゃなくて」
「さすが俺の弟だな!」
彼は僕の背中を思いっきり叩いた。
「痛っ!バカ!」
僕たちはそのままじゃれ合い続けて、そのまま二人とも眠ってしまった。
―一ノ瀬颯真視点―
俺は弟のことを愛している。それは間違いない。ずっと可愛がってきた。だからこそ、あいつが青葉に行きたいって言い出した時は、正直戸惑った。しかも偽名まで使って。
俺、何かやらかしたか?俺が原因なのか?
あいつは、そうじゃないって言ってくれた。じゃあ、何が理由だったんだろう。
俺は、青葉に行けるチャンスに飛びついた。あいつに会えるなら、なんだってやる。あいつに友達ができたって知った時、俺の嬉しさは天井知らずだった。それに、あいつには今、目指してる相手までいるらしいって。
あいつが何を成し遂げようとしてるのか、正直よく分かんない。でも、うまくいってるみたいだ。バイト?なんでそんなの始めたのか分かんないけど、まあいいか!俺は、ソファで眠ってる弟の背中を、そっと叩いた。
「ここで、お前の夢が叶うといいな」
――あの子が、お前にとって、きっといい影響をくれる気がする。




