第1話 英雄ゼリス(前編)
森の中を一人の少年が必死に駆けていた。
「た、助けて……!」
枝葉をかき分けるたびに息は乱れ涙で滲んだ視界の中でも何度も後ろを振り返る。その後を追うのは狼型の魔物だった。普通の狼より一回り大きな身体に鋭い牙を剥き出し獲物を逃すまいと地面を蹴るたび土を巻き上げながら距離を詰めてくる。
「いやだ……!」
木の根に足を取られた少年は地面へ転ぶ。その隙を逃さず魔物が飛びかかり迫る牙を前に思わず目を閉じた。その瞬間森へ鋭い金属音が響き渡る。
「よかった!間に合った!」
恐る恐る目を開いた少年の前には一人の青年が立っていた。短く切り揃えた黒髪を揺らし魔物の牙を剣で受け止めるその背中は少年を守るように一歩も引かない。少し離れた場所では肩まで伸びた栗色の髪を風になびかせた少女が素早く駆け込み迷いなく剣を構えていた。
「大丈夫か!」
振り返った青年の声に少年は震えながら何度も頷いた。
「ミライ!」
「任せて!」
声に応えたミライが魔物の横へ飛び込み振るった剣が脇腹を切り裂く。苦しげな唸り声を上げ体勢を崩した魔物へミライは間髪入れず声を飛ばした。
「カケル、今!」
その合図に応えカケルが一気に踏み込む。
「はあっ!」
鋭い斬撃が魔物を捉える。しかし後ろへ跳び退いた魔物はすぐに体勢を立て直し唸り声を上げながら再び二人へ牙を剥いた。その動きを待っていたかのようにミライが素早く回り込み退路を塞ぐ。正面からはカケルが迷いなく距離を詰め互いに視線を交わすことなく呼吸を合わせて攻め立て、再び飛びかかってきた魔物をカケルが剣で受け止める。その一瞬の隙を逃さずミライの剣が脇腹を掠め怯んだ首元へ迷いなくカケルの剣が走った。断末魔を響かせた魔物は力なく地面へ崩れ落ちそのまま動かなくなる。
「ふぅ……」
息を吐いたカケルを横目にミライはすぐ少年のもとへ駆け寄る。
「怪我はない?」
しゃがみ込んで目線を合わせると少年は震えながらも小さく頷いた。
「よかった」
優しく微笑みかけると張り詰めていたものが切れたように少年の目から涙が溢れ出す。
「怖かったよぉ……!」
「うん。怖かったね」
ミライは優しく頭を撫で続けた。
「でも、もう大丈夫だから」
「お姉ちゃん……」
少年はミライの服をぎゅっと掴んで離さない。その小さな手を見たカケルは思わず笑みをこぼした。
「すっかり懐かれたな」
「そうかな?」
少し照れたように笑うミライにつられてカケルも頬を緩めそのまま二人は少年を近くの村まで送り届けることにした。道中も少年は片時もミライの手を離さず小さな手は村へ着くまでずっと繋がれたままだった。
「お姉ちゃん強いんだね」
「へへ、ありがとう」
無邪気な言葉にミライは嬉しそうにはにかむ。隣でカケルはわざとらしくため息をついた。
「俺も戦ってたんだけどな」
少年はちらりとカケルへ目を向ける。
「お兄ちゃんもちょっと強かった」
「ちょっと!?」
大げさに肩を落とすカケルを見てミライが吹き出す。その笑いにつられるように少年も笑い声を上げた。そんな他愛ない話を交わしながら歩くうちに木々が開けその先に村が姿を現す、二人の姿を見つけた少年の母親は安堵したように表情を崩すと一目散に駆け寄ってきた。
「無事だったのね!」
駆け寄ってきた母親は少年を強く抱きしめその小さな身体を確かめるように何度も頭を撫でた。やがて溢れそうになる涙を堪えながら二人へ何度も頭を下げる。
「本当にありがとうございます!」
「気にしないでください」
穏やかに笑って答えるカケルの隣でミライは少年の前へしゃがみ込んだ。
「もう一人で森に入っちゃだめだよ?」
「うん……」
「魔物に食われちまうぞ」
横から口を挟んだカケルに少年の顔がみるみる青ざめる。呆れたように振り返ったミライは小さく息をついた。
「怖がらせないでよ、可哀そうでしょ?」
「はいはい」
肩を竦めて見せるカケルにつられるように少年の強張っていた表情がふっと緩み小さな笑みがこぼれる。
別れ際少年は最後までミライへ向かって大きく手を振り続ける。ミライも笑顔で手を振り返しその姿が見えなくなるまで見守ってから踵を返し二人は再び森道を歩き始める。
木漏れ日が木々の隙間から降り注ぎ柔らかな風が森を吹き抜ける。穏やかな空気に包まれた森を並んで歩きながらカケルはふと隣を歩くミライへ目を向けた。
「子どもに好かれるよな、ミライって」
「そう?」
きょとんと首を傾げるミライにカケルは思わず口元を緩める。
「さっきの子なんて完全にミライ派だったぞ」
「カケルが怖がらせるからでしょ」
呆れたように返されカケルは苦笑しながら肩を竦めた。
「あれは注意喚起だったんだよ」
「言い方」
ミライがくすりと笑いその笑顔につられるようにカケルも笑みを浮かべ二人の間には穏やかな空気が流れた。葉擦れの音だけが静かな森に心地よく響きつい先ほど魔物と剣を交えたとは思えないほど穏やかな時間の中二人は他愛ない話を交わしながら森道を歩いていた。その静寂を切り裂くように遠くから切羽詰まった悲鳴が響き渡る。
「た、助けてくれぇ!」
二人は一瞬だけ視線を交わしその一瞬で互いの考えを悟ると言葉を交わすことなく同時に地面を蹴った。枝葉をかき分け木々の間を縫うように森を駆け抜け悲鳴はなおも途切れることなく響き二人の足をさらに速めた。
森を抜けた瞬間目の前に飛び込んできたのは無惨に横倒しになった荷車だった。積み荷は街道へ散乱しその傍らでは商人らしき男が腰を抜かしたまま逃げることもできず震えている。男の怯え切った視線を追ったカケルは思わず息を呑んだ。その先街道の中央には一体の巨大な魔物が悠然と立ちはだかっており熊によく似た姿をしているがその巨体は見上げるほど巨大で全身を覆う分厚い毛皮はまるで岩壁のような威圧感を放っていた。鋭く伸びた爪が地面を擦るたび不快な音が静まり返った森へ響き渡りその姿はそこに立っているだけで周囲の空気を支配していた。
「でかいな……」
思わず漏れたカケルの声にミライも無言で剣を抜く。
「でも助けないと」
「ああ」
短く頷き合うと二人は迷うことなく魔物へ向かって駆け出した。
「おい!」
カケルの声に反応し巨大な魔物がゆっくりと振り返る。赤黒く濁った瞳が二人を捉えた瞬間腹の底を震わせるような低いうなり声が街道へ響き渡った。
「逃げてください!」
商人の叫びを背にカケルは真正面から魔物へ斬り込み渾身の一撃は魔物の腕を捉えた、しかし刃は分厚い毛皮に阻まれ浅い傷を刻むだけで止まってしまう。
「硬っ……!」
驚く間もなく巨大な腕が風を唸らせながら横薙ぎに振り抜かれた。
「ぐっ!」
咄嗟に剣で受けたものの勢いを殺し切れずカケルは大きく吹き飛ばされ何度も地面を転がりようやく剣を突き立てて体勢を立て直した。
「カケル!」
ミライは間髪入れず魔物の横へ回り込み鋭い一閃を放つ、しかし剣は毛皮の上を滑るように弾かれ魔物はわずかに身じろぎしただけだった。
「効いてない……!」
焦りの滲む声が漏れ立ち上がったカケルも痺れる腕を強く握り締め魔物を睨み据えた。勝てない――その考えが一瞬脳裏をよぎるがそれでも背後には逃げ遅れた商人がいる。ここで退けばあの男は助からない、逃げるという選択肢だけは最初から存在しなかった。
「ミライ!」
「もう一回!」
二人は息を合わせ再び魔物へ挑んだ。左右から同時に距離を詰め隙を作ろうと立て続けに斬り込む、しかし魔物は唸り声を上げると巨大な腕を横薙ぎに振るった。その一撃は暴風のように二人をまとめて弾き飛ばし身体はなす術もなく宙を舞う。激しく地面へ叩きつけられ肺の中の空気が一気に押し出され全身に鈍い痛みが走るがそれでもカケルは歯を食いしばり剣を杖代わりにしながら震える足で立ち上がろうとした。魔物は勝利を確信したようにゆっくりと距離を詰め、やがて巨大な影が二人を覆い鋭い爪を備えた腕が大きく振り上げられた。
もうだめだ、そう覚悟したその瞬間だった。一筋の光が目にも留まらぬ速さで魔物の脇を駆け抜ける。次の瞬間、巨大な身体がぐらりと揺れ魔物は断末魔を上げることもなくそのまま糸が切れたように力なく崩れ落ちる。何が起きたのか理解できずカケルは呆然と顔を上げた。倒れた魔物の向こうには一人の男が静かに立っている。男は剣を振り抜いた姿勢のままゆっくりと刃を納めると倒れた魔物へ視線を落とし小さく呟いた。
「おかしいな。こんなレベルの魔物この辺には出ないはずなのに」
あまりにも落ち着いたその声にカケルは思わず息を呑んだ、自分たちが二人がかりでも歯が立たなかった魔物をこの男はたった一撃で倒してしまったのだ、その圧倒的な実力を前に言葉を失う。
「ありがとうございます!」
「助かりました」
我に返ったカケルは慌てて頭を下げその隣でミライも深々と頭を下げる。男は穏やかな笑みを浮かべ軽く手を振った。
「いやいや、みんな無事でよかった」
その時腰を抜かしたままだった商人が男を見つめ震える声を漏らす。
「ま、まさか……」
男は不思議そうに首を傾げた。
「ん?」
「あなたは……英雄ゼリス様ではありませんか?」
その言葉を耳にした瞬間カケルとミライは驚いたように男を見つめた。英雄――。誰もが一度は耳にしたことのあるその名だった。
王道ですが物語はとても面白くなると思いますのでこの先も是非読んでください。




