【00.04:30】
「聞きたいことはまだあるが――まずは、その傷からじゃの」
状況把握の為に弥生へと質問していた初春だったが、首を振って話を終わらせる。
救急セットを開けながら、弥生の傷の出所を確認する。
深淵の犬の舌先が掠った弥生の左足は、血で染まっていた衣服で隠れていたから見えていなかったが、だいぶ深く――そして、酷い傷であった。
膝裏のすぐ下からくるぶしより数センチ上あたり――ふくらはぎを斜めに一線。
大きい傷口から流れる血は、歩いたことにより再び出始めていた。
止血として巻いていたのだろう、何かの布が血で濡れて傷へとくっつき始めていた。
濃厚な血の匂いに顔を顰めながらも、初春は裕へ水を汲んでくることと、タオルを持ってくるように頼む。
幸いなことに、水道や電気は止まっていない。
凜の無言の圧力に負け、短い廊下にある引き戸の先を確認していなかった裕だったが、初春にユニットバスであると説明された。そしてそこには水汲み用の桶もあると教わった。
部屋の探索はいつでもできるが、弥生の傷口から出る血は至急止めなければならないものだ。
使える物、使えない物の取捨選択は後程するとして、今は素直に初春の指示に従って水を汲み、運ぶことにする。
この部屋から一つ扉を戻って短い廊下へ出て、まずはクローゼットとは逆の扉――開き戸の扉へと向かう。
初春に聞いた通り、トイレと洗面台、そしてバスルームが一緒になっているユニットバスがあった。
洗面台の上には備え付けの棚があり、その中には手拭き用の紙やトイレットペーパー、歯磨きセットとコップなどが入っているらしいが、棚の中身はひとまず後だ。
棚の側面――浴槽側にはシャンプーやボディーソープの入った容器が置ける程度の小さな棚があり、その上にはJ型フックへと掛けられている桶があった。
裕はすぐに桶を取ると、浴槽で水をその中へ溜め始める。また汲みに来るかもしれないと考え、浴槽の栓を閉めておく。
水が溜まるのを待つその間、一度廊下へと戻って引き戸を開けた。
弥生の服装――作務衣なのだが、ずっと血まみれの服を着ておくのは気分的に嫌だろう、と思ったからだ。
しかし、厚手のコートかボディアーマーしかない。ズボンはなさそうだ。
裕は諦め、ふと目に入った黒無地のトートバックを取ってから戸を閉めると、ユニットバスへと戻る。
洗面台の上の棚からバスタオルを一枚、フェイスタオルを二枚取り出して先ほど拝借したトートバックの中へ入れると肩にかけ、水が溜まった桶を運んだ。
部屋に戻ると弥生がうつ伏せになっていた。怪我している左足の下にはクッションが敷いてある。
裕が桶を床に置き、トートバックからタオルを取り出せば、足とクッションの間にバスタオルを二つ折りにした状態で入れ、少しずつ水をかけて血を拭っていく。
弥生の苦痛に耐える声を聞きながら、露になっていく傷口の全貌。
その傷口は、腐敗し始めていた。
あの腐臭を纏った化け物から傷を負えばこうなるのか、と裕は目を見張った。
初春は知っていたのだろう。傷口の腐敗を見ても眉をひそめて「ある程度時間が経っているな」という呟きまで零していた。
応急処置をすすめ、水を汲みに行くこと数回。
フェイスタオルで血の取れた傷口を抑えて圧迫すること数分。
傷が開かないようにと厳重に包帯を巻かれ、そしてテーピングされた弥生の左の足先は、すっかり蒼白い。
圧迫しすぎたか、と思ったが、ちゃんと足先の感覚はあるらしいので、多分大丈夫だろう、と裕は思った。
ようやく、一息つける状態となる。
治療中は痛みに悶えていた弥生も、疲労と血を失いすぎたことによる体のだるさから寝息を立てている。
弥生と一緒に来た彩夏は酷い取り乱しようだったが、弥生の治療が始まってから張り詰めていた気が解けたのか、はたまた泣きつかれたのか。
弥生と同じく、今は深く寝入っている。
そんな二人を看病しているのは、二人の勤め先である旅館『月ノ庭』の女将、笑である。
二人のことは笑に任せ、珠惠は裕と初春に合流する。
「お爺ちゃんたちは、何かわかった?」
「二人の名前とあの坊主が怪我した理由、それから――部屋の前で待ち伏せしていた犬共が急にいなくなったからここまで逃げてきた、ということだな」
「わぁ、弥生さんったらさっすが~。一番大変だったのに、ちゃんと状況把握もしてて情報共有まで……」
「……その言い方的に、そっちは無理じゃったか」
「うん。彩夏さん、すっごい取り乱してて、会話とかそういう段階じゃなかったんだよね。もう録音された音声みたいにずぅーっと『ごめんなさい』とか『わたしのせい』とか……気が滅入っちゃった」
宥めるのも大変だったんだよー、とへらへらと笑う珠惠だが、その顔色はあきらかに疲労していた。
ただ、裕はその珠惠の表情を見て、大変だったんだな、とは素直に思えなかった。
何故なら珠惠の目に一瞬だけ浮かんだ感情は疲労ではなく、彩夏に対する負の感情――嫌悪し、軽蔑した目をしていた。
ただ疲れ、そのことを思い出したとしてもそこまで強い負の感情など、しないはずだ。
だから裕は、言葉に詰まる。
初春は気付いていないのか、変わりなく労いの言葉を珠惠へとかけていた。
言葉に詰まった裕も初春が声をかけた様子を見て我に返り、平静を装って珠惠を労った。
珠惠は裕の様子に気付くことなく、力なく「ありがとー」と笑いながら言う。
さっきのは、見間違い――そう、思うことにしよう。
裕は深く息を吸い、そして静かに吐き出す。
未だに血の匂いが充満しているこの部屋の空気は、嫌な思考を晴らしてはくれなかった。
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