【00.03:00】
生存者の集まる部屋を出て、迷わず二階へと続く道を行く。
足音を立てないように移動していたが、今は違う。
何せ、深淵の犬を探し、そして誘導することが目的なのだから。
深淵の犬は視力がゼロ――盲目なのだ。そして犬の形をしているが、嗅覚は人よりも劣る。
まあ、腐臭を発し、巻き散らしている存在だ。鼻が利かなくなるのは道理である。
その分聴力が良い――のだが、本来耳が音を拾う役割を持つのに対し、深淵の犬は臭いをかぐような動作で音を拾う。
――つまり、鼻が耳の役割を持っている。
見た目が犬であるから、余計に違和感を覚える化け物だ。
また、鼻が耳の役割を担っているから、鼻を使っている時にしか音を拾えないというのもおかしなところである。
幸いと言うべきか、深淵の犬は口からも鼻からも呼吸はするため、息を吸うときに音自体は拾っている。
だからこうして足音を立てて歩けば、一階くらいの距離ならばすぐに寄ってくるだろう。
「――マジでいねェのな」
だが、深淵の犬は一匹も寄ってこない。
今回同行することになった優は、何故か転がっていた古びたドアノブを手で弄びながら歩く。
音が聞こえれば鬱陶しいくらい寄ってくる深淵の犬が寄ってこないその原因を考えるが、何分情報が不足している。
優は少し首を傾げながらも、視線だけ動かして周囲の警戒を怠らない。
ただ巻き込まれて非日常に足を踏み入れただけの人間ではないな、と横目で見ながら凜は漠然と思った。
ただ、聞くことは叶わない。
凜が最前列で優は最後尾だからというのもあるが、凜の隣にぴたりとくっついて離れない零香と紅葉の存在が大きい。
――現在、探索に出ている者は凜と有理はそのままに、優と零香、そして紅葉を加えた合計六名だ。
優はこの非日常を知っているから探索に加えられた。
本人は面倒くさいと最初は言って断っていたが、探索の報告――深淵の犬が現れないと聞き、最終的にはまあいいや、と探索へ行くことを決めた。
ついでだからと魔術の媒体となるものやその加工するための道具なんかがないか探す気らしい。
零香は深淵の犬が現れないならばと唯一の知り合いである凜の傍にいたい、それだけだ。
紅葉は最初こそ部屋の外に出る気はなかったのだが、笑と珠惠に外の様子を見てきてほしいとお願いされ、断り切れずに探索をすることになった。
もちろん、凜や有理から無理についてこなくても良いと言われたわけだが、行くと決めたならば探したい人がいるから、と前向きに探索をする気持ちになっている。
ただ、怖いものは怖いようで、凜や零香と離れられないようだ。
――なお、最初は非日常をよく知る凜、有理、初春、優の四人で探索を出る予定だった。
だが、凜が紅一点になることや零香が凜を放っておけないから無理矢理にでもついていくという姿勢を示したこと、そして裕が女性ばかりの空間に取り残されるのに難色を示したので話し合いの結果こうなった、ともいえる。
そんなことがありながらも、六名は何の障害もなく二階へと降りることができた。
ただ、零香と紅葉が地下の“ソレ”を見、顔色が悪くなる。
ここに来て『非日常を知らぬ人』が見せる反応を思い出した有理は一人、失敗したな、と心の中で苦々しく思った。
凜は友と慕ってくれる零香の様子に気付いていながらも気遣うことはなく、淡々と告げる。
「――これに、深淵の犬を食べてもらうつもり。だから深淵の犬を探してあの卵のところまで誘導する」
「オマエ、ソレはマジで言って――るんだよなァ……」
「……何?」
はあ、とため息を零す優。
今までのにやけ面はそこにはなく、心底呆れた顔をしている。
――そして、その目はゾクリと肌が粟立つ程冷めきっている。
その雰囲気に呑まれた有理は息が詰まる。
もちろん、耐性なんてゼロに等しい零香と紅葉も同じだ。
地下の“卵”に続けて、優の豹変。
零香も紅葉も、近くにいた凜の制服の裾を強くつかみ、身を守るように凜の背へと縮こまる。
ただ、優の視線の先は凜である。
視線から逃れたいのならば、凜から離れるべきだった。
外れない視線に委縮し、ますます二人に恐怖が植え付けられる。
静寂。
ほんの数秒間の沈黙であったのだが、何倍もの時を感じたその静寂を破ったのは、慌ただしい足音だった。
荒い息遣いも聞こえる。それは、走っている、というのが分かる。
はっと我に返った有理は音の出所を探り、すぐに一階であると気付く。
吹き抜けから一階を見下ろせば、地下の“卵”が見える他に、その広間へと続く通路が当然ある。
そして、その足音の正体がタイミングよく広間へと現れた。
百七十センチには届かない中性的――いや、『幼い』や『可愛らしい』と形容される顔立ちのをした、黒髪の男だ。
その顔は必死そのもので、背後をしきりに気にしながら走っている。
「く、日下部さんっ!」
「え、も、紅葉ちゃん……!?」
慌ただしい音のお陰で正気に戻ったのだろう、零香と紅葉も吹き抜けから一階を見て、走ってきた人物を目にする。
紅葉は“探していた人”の一人であるその人を見て、思わず声をかける。
「く……っ、逃げて、隠れるんだ! キミたちはまだ間に合――――」
日下部と呼ばれたその男は、突如として言葉を切らす。
いや、正確には言葉が途切れた、が正しい。
先程まであったはずの床が突如として消え失せ、男は地下の“卵”の部屋へと落ちて行った。
それから男を追っていた追跡者――深淵の犬は、その消えた床の薄暗い穴の中まで追いすがる。
紅葉が喉から言葉にならない悲鳴を上げる。
「あ~~……床全体が結界の応用でできてんのか。好きに穴を開けることも可能、と」
妙に冷静な声が聞こえる。もちろん出所は優だ。
相変わらずの冷めた目線だが、その視線の先は地下にいる“卵”だ。
はあ、とため息を零した後、ぐるりと周囲を見回し、最後に凜へと視線を向ける。
「――さて、どーするよ? 罠に引っかかって全滅するか?」
「罠……」
「そ。罠。じゃねェと包囲なんてされてねェさ」
優はにやにやとした人を馬鹿にした笑みを浮かべる。
何が愉しいかは、全く理解はできない。
ただただ不快になるだけのその笑みは、しかしこの場においては無視された。
優の言葉の意味を理解し、有理は顔を強張らせる。
表情の変化が乏しい凜でさえ眉根を寄せて周囲を油断なく探る。
――絶望の、足音。
閲覧ありがとうございます。
誤字脱字等ありましたら、教えて頂けると嬉しいです。




