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表現行為としての小説論  作者: 稲葉孝太郎
解決方策の提示
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思想の体現としての物語

 通信手段の発達により、テキストは世界中を駆け巡る。作者は、自分の作品について、あとから弁明することができない。そのような努力は、徒労に終わるであろう。

 したがって、作者が誤読や誤解を防ぐためには、テキストを流通させる前の段階で、手をほどこすしかない。ここで、ふたつの方法が考えられる。ひとつは、あとがきなどで、あらかじめ説明を付しておくことである。しかし、これはあまりにも体裁が悪いし、テキストが流通するとき、あとがきは無視されやすい。現実的な解決策ではない。

 そこで、もうひとつの方法は、作中の会話か地の文で、説明を加えることである。作中で設定を語らせる、などの、様々なバリエーションが考えられる。いずれにせよ、現在でも広く使われている手法なのではないかと思う。

 

 但し、本稿の重点は、設定の普及にはない。そうではなく、物語の意図が、読者に伝わらない場合を想定している。なるほど、設定の誤解が、物語全体の解釈に、大きな影響を与えることもあるであろう。しかし、それはあくまでも、副次的な作用に過ぎない。より重要なのは、執筆の意図、すなわち、どのような物語を伝えたかったのかである。この意図に関する、書き手と読み手の齟齬を事前に防ぐのが、作中解説の役割となる。

 しかし、既にお気づきの方もあろうが、これには大きな問題がある。作中解説は、しばしば、物語の進行を阻害する。事実の経過とその解説は、多くの学術書において、分離させられるのが常である。少なくとも、この部分は事実の経過、この部分は解説というふうに、区別できるようにする。この区別は、学術書においては、何の問題も生じさせない。むしろ、必要ですらある。だが、小説でこれを用いると、物語の進行がいったん止まり、読者は解説を読むように強いられる。例えば「おはよう」と挨拶したあとで、「僕はこれを朝の挨拶のつもりで言ったのであって、他意はない」と付け加えるたとしよう。これがどれほど不自然なコミニュケーションであるかは、容易に分かる。

 

 以上のような理由から、単純な物語+解説という組み合わせでは、難しいことが分かる。もちろん、それを作風だと主張することもできるだろう。それは、それでよい。けれども、作風として割り切りたくないときは、別の解決方法が求められる。

 私がひとつの解決方法として提示したいのは、物語の意図と、キャラクターの言動をシンクロさせることである。この曖昧な言い回しには、若干の説明が必要であろう。まず、私が小説を書く目的として、ひとつの考え、ひとつの思想というものを、物語として展開させたいという気持ちがある。思考一般は、普通、学術的に表現されるものだと思われているが、私は必ずしもそのように考えない。物語による思考の表現が、あってもよいはずである。とりわけ日本においては、物語による思想の表明が盛んであるように見受けられる。

 なぜ思想と物語とが一体になりうるのか。それは、人間の思考というものが、対象を必ずとらなければならないからである。思考それ自体の伝達は不可能であり、その思考が人間の活動を指し示しているときは、なおさらである。例えば、「食べる」という行為は、食事を行わない生命体のもとでは、何ら意味を持たないであろうし、それに関する思想というものも、生まれないであろう。捕鯨問題やイルカ漁の問題も、人間が殺生をするから起こる。不殺という概念は、補食動物であるという事実と密接に結びついている。殺すべからずという掟は、不死の神々のあいだでは無力であろう。

 このようにして、今や、思考と生活との分離はできないことが明らかになったので、物語の登場人物は、思考を体現するものとして、捉え直される。地の文で、わざわざ第三者的な解説を入れなくとも、キャラクターの言動が、物語の意図を伝えうる。それは、キャラが作者を代弁するということではない。そうではなく、物語は、それ自体で代弁する力を有するのである。社会問題が、一定の事実の組み合わせ(例えば、「鯨を捕る」ということなどから)できているように、物語の中の問題も、一定のエピソードの組み合わせから成る。それを、あとから作者が取り立てて指摘する必要はない。喜びの物語は喜びのエピーソードの組み合わせから、悲しみの物語は悲しみのエピソードの組み合わせから生まれる。今や、誤読の予防は、エピソードの組み合わせに関する力量へと還元される。

 

 これに対しては、「その物語を解釈するのは結局読者なのであるから、誤読の可能性を排除できないのではないか」という反論が考えられる。私はこの反論に、部分的に同意する。そもそも、これまでの分析から明らかなように、コミュニケーションにおいて語り手と聞き手の完全な相互理解が生まれることは、ありえない。そこには、必ず解釈が媒介する。物語による思想の体現とは、きちんと書けば必ず伝わる、という意味ではない。誤読・誤解の予防手段としてのみ使える、ということに過ぎない。それは、病気の予防が、病気の根絶に繋がらないのと同じである。予防策があることと、必ず回避できることとは異なる。

 

 最後に、今回のエッセイの表題について説明しておきたい。小説を書くということは、私にとっては表現行為である。そこで表現の対象となっているのは、(堅苦しく考えない意味での)ひとつの思想であると言える。人間の表現は、誤解から免れない。そのなかで、いかに誤解を少なくするか、というところに、本稿の主眼があった。出て来た結論は、物語それ自体に体現させるという、やや抽象的な回答であった。ここで抽象的な回答にならざるをえなかったのは、回答の性質からして、仕方がなかったように思う。なぜなら、物語に体現させることの実例は、物語を書くこと以外によっては、示されえないからである。つまり、書くことによってのみ、本稿の正しさは検証される。これまでの見解の是非は、私の今後の執筆活動によって、実地に試されるであろう。

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