第8話 留守番ではない
試食室で、美緒が二種類の空袋を並べていた。
「食べ物は?」
「今日はありません」
俺の顔を見て、付け足す。
「そんなに残念そうにしなくても」
片方は見慣れた袋。もう片方は、切り口の近くに目印が増えていた。
『開ける向きを、色だけに頼らず見分けられるようにする』
提案書の見出しを読み、俺は前に滑らせた指を思い出した。
「この間の、あれ?」
「ほかの人にも試してもらったんです。同じところで迷う人がいたので」
美緒は袋をひっくり返し、照明の向きを変えてみせた。目印の見え方が変わる。
「一つ直すと、別の条件で困るかもしれないので」
簡単な答えが出たわけではないらしかった。
俺も手袋を借り、何度か持ち替えた。前より迷いにくい。でも、片方は机に置いた時に目印が隠れる。
そう言うと、美緒は残念そうにする前に、その向きの写真を撮った。
彼女の仕事が進む音は、こういう小さなシャッター音なのかもしれない。
俺一人の失敗が、俺一人の問題ではなくなっていた。
「これなら使いやすい、と言いたいところだけど、俺だけで決めない方がいいな」
「はい。だから評価に回します」
美緒は既に必要な欄を埋めていた。提出者は小宮美緒。俺の名前は、使用状況の確認協力という欄にある。
役割が正しい場所へ収まっているのが、何となく嬉しかった。
「俺が向こうへ持っていってからでも」
言いかけると、美緒が顔を上げた。
「それまで、こっちで止めておく理由はないです」
◇
確かにそうだった。
俺が行く。俺が見てくる。俺が報告する。
そんな言い方を続けているうちに、向こうへ行く人間の時間が中心になっていたらしい。
美緒は袋を一つ折り、こちらへ渡した。
「相沢さんがいなくても、便は出ますし、新しい食品も作ります」
「それはそうだ」
「なので、全部持っていこうとしなくていいです」
仕事が減るはずの言葉なのに、少し寂しかった。
美緒は俺の返事を待たず、評価日程の確認を始めた。
何もかも相談されなくなる。自分がいなくても決まることが増える。
それを、自分の価値がなくなったことと混同しそうになり、俺は紙を揃え直した。
向こうに行ってほしいと言われた仕事がある。こっちで進めたいと彼女が言う仕事もある。どちらかが暇になるわけではない。
「地上で分かったこと、向こうにも回してくれよ」
美緒が顔を上げ、もちろんです、と答えた。
『地上で試せることは、地上で先に進める』
その下に、軌道上で確認が必要な項目を分けた。俺の担当は、そちらだった。
「私だって、実際に食べているところを見られたら、とは思いますよ」
美緒が言った。
「行きたいの?」
「仕事として必要なら考えます。相沢さんが行くから、という理由だけでは決めません」
からかう余地のない声だった。
俺は頷いた。その答えを、少し頼もしいと思った。
留守を守る人、と勝手に考えていたのは俺の方だ。彼女の仕事も、その先へ続いていた。
◇
マコとの日曜日の食事は、あれから何度か続いていた。
店は毎回違う。話す内容は大して変わらない。ただ、仕事のついでに誘うより、約束をした日は少し早く時計を見るようになった。
その日はマコから、次の週末は無理だと言われた。
「仕事。二泊くらい」
「そっちも出張か」
「地上だけどな」
反射的に、予定を動かせないのかと聞きそうになった。口を閉じてから、今日の美緒の言葉を思い出した。
「そっち、準備は?」
「明日まとめる。まだ一件、返事待ち」
マコも、休みの日まで仕事の返事を気にしている。自分だけが特別に忙しいような顔をするのはやめようと思った。
「晩飯、もっと早い時間にすればよかったか」
「今日はこの時間でよかった。だから来た」
さらりと言われ、俺は黙った。
マコが自分で決めて、この席に座っている。その当たり前のことを、親しいというだけで見落としたくなかった。
「じゃあ、帰ってからでいい。俺も予定を見直す」
マコが少し驚いた顔をした。
「待っててくれるんだ」
「いつも待たせてるからな」
テーブルの上で二つの予定表を見比べる。
『いつも予定の空いている方が、相手に合わせることにはしない』
冗談めかして言うと、マコは、それは大事、と頷いた。
候補日を三回出し直して、ようやく空いている日が合った。それでも決まった瞬間、マコの目元が緩んだ。
会えることだけではなく、ちゃんと相談したことを喜んでいるように見えた。




