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40歳、宇宙出張。 ~食品会社の普通のサラリーマンですが、会社命令で宇宙に行くことになりました~  作者: 綺羅星の猫


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第9話 帰ったら、の約束

総合評価の日は、朝から靴紐がうまく結べなかった。


同じ靴を何か月も履いているのに、指だけが最初の日へ戻っていた。


演習が始まると、端末に指示が届き、別の担当から問い合わせが入り、手元の一覧に修正が出た。


全部に急いで返事をしようとして、一度息を吐いた。


いま扱っている物。確認が終わったこと。まだ返事を待っていること。


順番に声へ出す。途中、また番号が聞き取れなかった。


今度は指を止める前に、口が動いた。


「末尾をもう一度お願いします」


確認した番号を復唱し、相手の記録と照合する。大きな正解の音は鳴らなかった。作業が一つ進んだだけだった。


最後の欄を閉じた時、終了が告げられた。


『自分の担当範囲を、確認記録付きで完了した』


教官が振り返りの画面を示した。


「判定は、ほかの評価と合わせて連絡します。今日はここまでです」


俺は椅子から立ち、膝の裏に汗を感じた。


できる人になった実感はない。ただ、初日の俺なら間違えた場所を、今日は通り過ぎなかった。


更衣室で名札を外すと、裏側の留め具が緩んでいた。訓練の間に何度も付け外ししたせいだろう。


初日は新品だったものが、俺より先に働いた顔をしている。


鞄へ入れかけて、表をもう一度見た。会社名と、相沢直人。そこは何も変わっていない。


スマートフォンが鳴り、会社から翌日の打合せ確認が来た。


評価の余韻に浸るには、ずいぶん現実的な連絡だった。俺は出席と返し、遅れていた電車の時刻を調べた。


    ◇


結果待ちの間にも、会社の仕事は残っていた。


試食室へ行くと、美緒は前とは違う試作品を用意していた。


「行く前に、もう一回お願いします」


「まだ行けるって決まってない」


「では、決まっていないうちに」


いつもの調子に戻され、俺は椅子へ座った。


開封の目印は、評価を重ねて少し形が変わっていた。俺の指が迷わなかったことを、美緒は何も言わず記録した。


「いま、開ける前に裏返しましたね」


「癖になってた」


「その癖があっても間違えなかった、と」


成功したことだけでなく、そこまでの動きも見ている。俺にはただ袋を開けた数秒だったが、美緒には別の情報があるらしかった。


「先に正しい向きを教えなくていいの?」


「教えた後だけ試しても、初めて使う人のことが分からないので」


俺の不慣れさにも、まだ出番があった。できないことばかり気にしていた初日とは、少し違う気分だった。


「前より香りが早く来るな」


「そこ、変えたんです」


会話が続く。うまいという一言の先に、こんなに聞くことがあったのかと、今でも思う。


「相沢さんが戻る頃には、また変わってるかもしれません」


「追いつけるかな」


「食べれば分かるようにします」


俺は記録票の下に書いた。


『帰ってからも、感想を具体的に伝える』


美緒はそれを見て、紙を自分の方へ引き寄せた。何も付け足さず、クリップで留めた。


    ◇


マコは仕事の出張を終え、俺より先に店へ着いていた。


「終わった?」


「訓練の評価は終わった。結果はまだ」


「怖い?」


今さら見栄を張る相手でもない。


「普通に怖い。窓の外を見て、帰りたいと思ったらどうしようって」


マコは笑わず、水のグラスを少し動かした。


「帰りたいところがあるのは、悪くないだろ」


何かうまく返そうとしたが、出てこなかった。


運ばれてきた皿の湯気が、二人の間に上がった。


マコが小皿を一枚、俺の方へ寄せる。その何でもない動きまで、しばらく見られなくなるかもしれない。


「長く付き合ってると、こういう時に気の利いたことが言えないな」


俺が言うと、マコは箸を止めた。


「気の利いたこと、いつも言ってたみたいだな」


ひどいが、事実だった。笑うと少し楽になり、今度はちゃんと相手の顔を見られた。


「帰ってきたら、何食べたい?」


「まだ出てないのに?」


「先に考えとく」


高い店の名前も浮かんだが、口に出すと違う気がした。


「いつもみたいなのでいい。遅くなっても入れるところ」


マコが「ちょっと残念」と笑った。


『帰ったら、普段の夕飯を一緒に食べる』


それでもメモを取ってくれた。日付の入らない約束だった。


俺はその手元を見ながら、宇宙へ行きたいとはまだ思わないのに、ちゃんと帰ってこようとは思えることに気づいた。


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