第32話 夜の窓の待ち合わせ
窓の席を取ったのに、窓が黒かった。
外が見えないわけではない。
地球の夜の側へ入っていて、雲と海の境が俺には見分けられなかった。
席の固定具を確かめていると美緒が来た。
いつもの鞄は持っていない。
飲み物の容器を手首の帯へ留め、空いた手で手すりを辿っている。
「お待たせしました」
「俺も今。仕事、終わった?」
美緒が俺の顔を見た。
「今日は、そこから始めないでください」
俺は口を閉じた。
見知った同僚と仕事以外に何を話すか、その場で急に難しくなる。
「じゃあ、昨日の照り焼きは」
「それも、半分仕事です」
「厳しいな」
美緒は笑って向かいへ身体を収めた。
俺は自分の温かい飲み物を脇の留め具へ入れる。
美緒の分は冷たいものだった。
同じ席へ来るのに、同じものを飲む必要はない。
「地上で休みの日、何してた?」
言ってから、もう話題が普通すぎると思った。
美緒は普通に答えてくれた。
「知らない店を、見に行ったり」
「食べに?」
「見るだけの予定だった日もあります」
予定の方を強調している。
俺が笑うと彼女は容器へ手を伸ばした。
「買うつもりじゃなかったんです。でも、揚げたてって書いてあったので」
「それは仕方ない」
「別のお店では、焼きたてって」
「そっちは別件だな」
「そうなんです」
美緒が真面目な顔で頷いた。
二人とも笑った。
その間に窓の下の方へ小さな光の集まりが出ていた。
俺が顎で示すと美緒は顔を外へ向けた。
地図なら線を引けるところに、灯りだけが続いている。
どこの街かは二人とも分からなかった。
「地上の人も、夕飯の時間かな」
俺が言うと美緒はしばらく黙った。
「朝の人も、いるでしょうね」
「そうか」
会社の隣の席にいる人と、同じ夕方を見ているつもりでいた。
窓一枚の向こうにはそれが通じない場所がある。
美緒が容器を留め直した。
「相沢さんは、誰かと行く予定がありますか」
「店?」
「地上へ帰ったら」
マコとの約束が浮かんだ。
俺はそれを曖昧にしなかった。
「マコと飯を食う約束がある。来る前にしたやつ」
「そうですか」
美緒は窓を見た。
飲み口へ持っていく途中だった容器が止まっている。
俺は帰還の日付がまだ決まっていない話を足しかけた。
足しても、その約束がなくなるわけではない。
「小宮さんとも行きたい」
彼女がこちらを向いた。
「調査ですか」
「見るだけの予定で」
美緒の目が細くなった。
「それは、危ない予定ですよ」
「揚げたてがあったら変更する」
「焼きたてもです」
「分かった。両方」
彼女は笑った後で、声を落とした。
「私も、行きたいです」
俺は容器のふたを押さえた。
もう飲むところではなかったが、手をどこへ置けばいいか分からなくなった。
窓の反射に二人が映っている。
外の光を見る顔ではなく、こちらを見ている美緒の顔だった。
「今、そっちへ寄ってもいい?」
俺が聞くと、彼女は隣の固定具を見た。
「はい」
飲み物を携行帯へ戻してから身体の固定を外した。
手すりを使い、空いているところへ移る。
近づいた拍子に肩がぶつかる、という格好のいいことは起きなかった。
俺は最初に足のループへ引っかかった。
美緒が笑いを堪えている。
「急がなくていいですよ」
「急いでない。下手なだけ」
ようやく隣へ収まると、同じ窓を見る角度になった。
彼女の袖が俺の袖へ触れている。
美緒は離さなかった。
俺も場所を取り直さなかった。
地上の街の名前は、結局分からないままだった。
今夜の席を選んだことには、それほど困らなかった。




