第26話 休む場所にも、固定具がある
翌日の夕方、俺は自分の部屋で、まだ昨日の一覧を見ていた。
訂正は済んでいる。
地上からも返事が来た。
それでも、もう一度見たら別の間違いが出てくるのではないかと思って、閉じられなくなった。
空調の音がする。
机に身体を固定していると、移動しなくても肩が凝った。片手を外して首を回し、途中でやめる。
四十歳の身体を宇宙へ持ってきた。
こちらでも、疲れた日は疲れる。
端末に、美緒から連絡が来た。
『今日の記録、送れました』
俺は、お疲れさま、と返した。
送ってから、昨日、七食のことで一日使ったと説明しかけた。
書きかけの文章を消す。
彼女は、自分の仕事を終えたと知らせてくれたのだった。
『どうだった?』
今度は、それを送った。
『開ける動きは、地上で再確認してもらうことになりました。こっちで直せるところも、二つあります』
少し間が空いた。
『今、仕事中ですか』
『終わってる。部屋にいる』
送ると、すぐに続きが来た。
『飲み物を取りに行きます。窓のところ、寄れますか』
机の上の一覧を見た。
自分が席を外したからといって、訂正した数字が元に戻るわけではない。
俺は画面を閉じ、固定具を外した。
◇
美緒は二人分の飲み物を用意していなかった。
自分の分だけを手に持ち、俺が自分で選ぶのを待っていた。
「相沢さんは、温かい方にしますか」
「うん」
「私は冷たいのにしました。ずっと作業台で、手が温かくなっていて」
窓の横の席で、足のループへ身体を収め、容器を脇の留め具へ固定する。
地球は見えなかった。窓の端に、施設の外へ伸びた構造物が白く光っている。
俺は飲み口のふたを確かめ、一口飲んだ。
部屋を出るまで、喉が渇いていたことも忘れていた。
「昨日、大変だったんですね」
美緒が言った。
「誰かから聞いた?」
「訂正の連絡が、私の業務にも回ってきました。個人の話は書いてありませんでしたけど」
俺は自分の名前を付けた文章を思い出した。
「俺が作った一覧だった」
「はい」
「今日は帰ってからも、それを見てた」
美緒は容器を握り直した。
「今は?」
俺は窓の方を見た。
「閉じてきた」
「じゃあ、今日はそのままで」
励ますための長い言葉は、なかった。
俺も何が悪かったかをもう一度説明せず、飲み物を飲んだ。
美緒が地上へ送った記録の話をした。こっちでは袋を持つ手を変えたくなるのに、地上の手順書では片手がずっと空いていることになっている。
その手が何をしているかを書かないと、作業の半分が消えてしまうという。
「俺の手は?」
「だいたい、次に掴まるところを探してます」
「仕事してるな」
「しています。書くと、けっこう長くなりました」
俺は自分の手を見た。
地上では、電車のつり革を持っていた方の手だ。
ここへ来ても、何かを持っている時間が長い。
美緒の容器が、留め具の輪から少し外れかけた。彼女が自分で留め直す。
俺は手を出さずに待った。
「相沢さん」
「何?」
「今日、ここへ来てもらったのは、様子を見に来たんじゃないんです」
美緒は窓ではなく、俺の方を向いた。
「私が、誰かと話したかったので」
容器のふたに置いていた指を、俺は離した。
疲れた顔を見せたから、心配してくれたのだと思っていた。
「俺でよかった?」
言うと、美緒が眉を寄せた。
「相沢さんに送りました」
返事をするまでに、間が空いてしまった。
「うん。来てよかった」
美緒はその後で、笑った。
窓の外には、まだ地球がなかった。
俺たちは白い構造物を見ながら、地上の会社の給湯室の話をした。最後の一人が水を補充していないと、次の朝だけ妙に腹が立つ。
宇宙の窓の前でする話でもない。
でも、部屋で一人、昨日の数字を見るよりは、ずっとよかった。
飲み終わると、美緒は自分の容器を回収口へ持っていった。俺も固定具を外して続く。
別の通路へ向かう手前で、彼女が言った。
「次は、地球が見える時も」
俺は頷いた。
今度は、仕事がうまくいかなかった日を待たずに誘いたかった。




